「あ、こっちです!」

 マヤは、待ち合わせていた人の姿を見つけると、大きく手を振って、自分の場所を知らせた。有名ケーキ店の喫茶ルームは、女性客でほぼ満席だ。その中を、いかつい雰囲気の老人がゆっくりと車椅子を押され、進んでいく。

「いや、マヤさん。試演の前に、こうやって時間を作ってもらって、すまないね」
「いえ、いいんです。今日は早く稽古が終わったから。お久しぶりです、おじさん」

 マヤの席の近くまでやってきた英介は、側近の男を下がらせて、マヤと二人きりでテーブルを囲む。

「もう試演を近いから、会うのは難しいかと思ったんだが、メールしてみるものだな。こうしてマヤさんに時間をとってもらえたのだから」

 英介は、機嫌のよい、好々爺そのものの笑みを浮かべた。

「たまたま時間が空いたんですよ。このあと試演までずっと稽古漬けなので、ほんと、今日のこの時間だけ、っていうところにおじさんからのお誘いメールが入ったから、ビックリしました」

 マヤもニコニコと、無邪気な笑みを浮かべてこたえた。マヤの稽古が午前中で終わったことはもちろんリサーチ済みで、誘いのメールをいれたのだ。

「いや、恋人とのデートもあるだろうに、そんな貴重な時間をわしのために割いてもらって、悪かったですな」

 さらりと、自然な様子でそんなふうにいう英介に対して、マヤは過剰に反応して、頬を赤らめた。

「そ、そんな、恋人なんて、私、いないですから。気になさらないでください」
「おやおや、マヤさんのようにかわいらしいお嬢さんに、恋人もいない、なんていうのは、おかしいですな」

 英介はさも驚いたように、そういってマヤを見つめると、マヤはさらに赤くなって、首を振る。

「いえ、そんな」

 そんな様子のマヤを英介は目を細めて注意深く見つめた。顔立ちこそ、特別美人ではないが、昔に比べるとずっと大人びて、ほのかな色香さえ漂わせるようになった。それでいて、子供のような無邪気な笑顔を浮かべるマヤには、さすがの英介もつい微笑んでしまうような、人を惹きつけてやまない魅力がある。それに。なんといっても、彼女は天才的な才能をもった女優であり、紅天女候補なのだ。あの、月影千草が演じた紅天女を、目の前の少女が演じたら、どんなふうなのだろう、と一瞬考える。そうすると、年老いて、冷え切ってしまったような感情ですら、ぴくり、と息を吹き返して、動かされてしまいそうになる。こういう少女だからこそ、大都の命運をその小さな手に、我知らずに握ってしまったりするのかもしれない、などと考え苦笑する。

「おじさん? どうかされましたか?」

 マヤが英介を覗き込んだから、あわてて首を横に振った。

「いやいや、なんでもありません。ちょっと考え事をしていたものだから。マヤさんはもちろん、今日もパフェを食べるのでしょう?」
「ええ。ここのお店はケーキはもちろんだけど、パフェが絶品なんです。おじさんも、食べるでしょう?」

 そう、いたずらっぽい瞳でいわれて、心が動かされそうになるものの、また腹を壊すのは勘弁こうむりたいと、英介は苦笑いする。

「いや、今日はちょっと腹の具合が悪くてね。残念だが、コーヒーだけにしておくかな」
「あら、大丈夫ですか? そんなときに私とこんなところにいて」

 マヤが心配そうに眉を寄せるのを見て、英介はことさら快活な笑顔を作って首を振った。

「大丈夫。今日は、どうしてもマヤさんに相談したいことがあったものだからね」

 マヤが大きな瞳を、さらに見開いた。

「おじさんが相談? 私が相談なんて乗れるかしら」

 そういって小首を傾げたマヤに、英介は静かに微笑みかける。

「いや、あんたにしかできない相談なんですよ、マヤさん」

 口元にはまだ笑顔を浮かんでいたが、その眼光がやや厳しい光を帯びはじめる。
 そのあと、ウェイトレスがやってきたので、二人の会話は中断された。マヤは、季節のパフェを、英介はコーヒーを注文する。

「それで、私に相談って、なんですか?」

 マヤは英介の顔を、ちょっと首をかしげて覗きこむ。

「わしの息子のことなんだがね」
「息子さん? 息子さんのお話は初めてですね」

 英介はマヤの表情のいかなる変化も見逃さないように、じっと様子を見守りながら頷く。

「ああ、そうかもしれない。マヤさんには話していなかったな。わしには一人、息子がおりましてな。わしの会社の跡取りとして、とにかく仕事ができる男にする、その一点に集中して徹底的に鍛えあげた。その甲斐があってか、まあ問題ないだろう、というくらいには育ったんだがね」
「ええ」

 どこかで聞いたことがあるような話だ、と思いながらもマヤは静かに、相槌を打つ。

「だがね、いきなり、あいつはわしを裏切りおった」
「え……」

 マヤは、目の前の男の、鋭利な刃物のようなその言葉に、ぞくり、と反応した。今まで自分が知っていた、昔の千草の話を聞かせてくれた優しい“おじさん”から、いきなり威厳や気難しさ、そして容赦のない残忍さのようなものが、その表情の中に浮き上がってきたことを敏感に感じ取って、本能的に体がこわばった。

「そうして、とんでもない暴走をはじめた。蛮行といってもいい」
「バンコウ……」

 マヤは、その言葉を呟いてみる。なにかひたひたと押し寄せてくるような圧迫感が、マヤの背中にすっと、冷たいものを走らせる。

「何があいつを駆り立てたのか、とすぐに周辺を調べてみたが、しっぽをなかなか出さない。わしが鍛えただけあって、あいつも抜かりがない」

 そういって苦笑する英介を、マヤは、なんといっていいのかわからず、ただ見つめるだけだ。

「だが、ひとつ。大きなヒントが浮かび上がった」
「ヒント、ですか?」

 マヤがそう呟くと、英介は微かに頷いてみせた。

「そう。息子の行動を調べるうちに、ひとつ、ある重要なヒントを掴んだ」

 マヤは、どこか袋小路に追い詰められていくような、そんな息苦しさを感じながら、目の前の男の、鋭い視線で押さえつけられてしまったように、身動きすらできない。

「わしの息子は、北島マヤの筋金入りのファンだった。あんたが中学の頃から、匿名で紫のバラを送り、高校の進学費用や、壊れた舞台の補修費とやらまで援助するような、ね」

マヤの顔色が、一気に青ざめた。無意識のうちに手のひらを口に当てて、声にならない声で呟いた。

「……速水…会長」

英介はにやり、と狡猾な笑みを浮かべた。

「ようやく、気がついたかな? あんたは、演技以外では、ぼんやりしておるようだな、マヤさん」

 そういって、愉快そうに笑った。一方マヤは、石でも飲み込んでしまったように声がでない。

「お待たせいたしました」

 そういって、ウェイトレスが注文した品を運んできた。フルーツで色鮮やかに彩られたパフェをマヤの前に、湯気のたつコーヒーを英介の前において、去っていく。

「さ、パフェがきた。早く食べないと、アイスが溶けてしまうぞ」

 そういって、英介はマヤを促すけれども、マヤはぴくりとも動かない。そんな様子を気にかけるでもなく、自分はさっさとコーヒーカップを掴むと、ごくりと一口飲む。

「今回の鷹通に対しての真澄の買収行為、のっとり、とでもいえばわかりやすいかもしれんが、一般的には日本ではありえない行為だ。成功した例はほとんどないし、今回も失敗する可能性が高い。それなれば大都はもちろん、真澄もこの世界では生きてはいけなくなるだろう」

そうはっきりと言い切る英介に、マヤは背中からくる震えを、どうすることもできなくなる。

「生きて……いけない、ってどういうことですか?」

 絞りだすような声で、震えを抑えるように両手で自分を抱きしめているマヤを、英介は無遠慮に見据える。

「言葉どおりだ。生きていく術をすべて失う、ということだ」

 マヤは恐怖のあまりに、全身から血の気を失うような感覚を覚え、思わずソファの背もたれに身を預ける。そんなマヤの様子を英介はじっと見下ろすように見つめる。

「確か、梅の谷近くのあんみつ屋だったな。あんたは、わしの悪口もいっておったが、真澄のことを相当恨んでおった。それはそうだ。母親を死に追いやり、あんたを何度も苦境にたたせた張本人だからな。そんな真澄が、いくら足長おじさんだったからといって、許せるわけがないだろうし、今はもう、真澄からの援助など必要ないほど立派な女優になった。あんたの大嫌いな真澄や大都が潰れたからって、なんの支障もないだろうな」

マヤは何度も口を開こうとするけれど、そのたびに出て行こうとする言葉を押しとどめる。英介が、自分を試そうとしていることが、痛いほど伝わってくる。

「そんな……。だって速水さんは、いくら憎く……ても、私の恩人です。そ…んな、普通でいられるわけがありません」
「ほお」

 英介は、わざと鷹揚に驚いてみせた。

「その様子では『紫のバラの人』が真澄だ、ということを前からわかっていたんだな。それで、真澄への憎しみを帳消しにしたという訳か。 あんたが紫のバラの人に恋をしているようだ、という噂を、稽古場周辺で聞いた。つまりは、匿名で援助していたのが、真澄だと知ったうえで、あれに恋をしていた。そういうことだな」

マヤは、英介の巧妙な罠に、どんどん絡めとられていくのを感じていた。百戦錬磨の英介にかかれば、マヤのような小娘などひとたまりもない。

「あんたの気持ちを知った真澄が、すべて整っていた縁談をぶっ壊すために、大都をまるごと賭けて、こんな騒動をおこした、ということか。なんとまあ愚かな男だ」

吐き捨てるように呟かれたその言葉に、いままで落ち着きのなく、おどおどしていたマヤの体のどこかに、すっとスイッチが入ったように電気が走り、我知らず、きっと英介を睨んでいた。

「速水さんは、愚かなんかじゃありません!」

 きゅっと表情を引き締め、まるで子猫を守る母猫のように睨みつけてくるマヤを、英介は面白そうに見つめた。

「おやおや。ずいぶん変わったものだ。あれほどけなしていた真澄を、そんなふうに庇うとは。また真澄が、お前さんを騙そうとしているのかもしれない、とは思わなかったのか? 散々あんたを追い詰め、窮地に追い込んだ男だぞ」

英介がにやりと、誰もが背筋が寒くなるような笑みを浮かべる。けれど、マヤはそんな英介に全く動じることないどころか、ふっと口元を緩めてさえみせた。

「どうした? 何がおかしい」
「だって」

マヤは静かに顔をあげ、毅然とした様子で英介を見つめかえした。

「どうしてみんな、私に速水さんのことをそんなふうにおっしゃるのかな、と思って。速水さんが、いえ、真澄さんがそんな人じゃない、って私にはもうわかっているのに。それにもし、仮に騙されていたとしても、使い捨てされようとも、今はもう、そんなことはどうでもいいんです。私が紅天女になれたとして、真澄さんが上演権が欲しい、といえばあげます。もう北島マヤはいらない、そういわれれば、彼の前から去ります。ただ、あの人が求めることなら、すべてしてあげたい、そう思っているだけです」

英介は呆気にとられて、マヤを見つめる。口調は淀みなく静かだが、もう包み隠すこともせずに、はっきりと真澄への愛情を語るその口調は、凛としてどこか気高さすら漂っていた。

「ずいぶんと無防備なことだ。ぬけぬけと、そんなことをこのわしに正面切って言うとはな」

英介はそう毒づきながらも、自己犠牲を本気で厭わない様子のマヤが、尾崎一連に恋こがれ、英介には目もくれなかった月影千草を、そしてあこがれ続けた紅天女を彷彿とさせ、昔の古傷をじくり、えぐられるような痛みが走った。

千草と紅天女。何度強引に、我が物にしようとしたことだろうか。それでも英介の腕をするり、とすり抜け、結局手にすることはできなかった。そんな自身の想いを託したはずの真澄は、英介を裏切り、人生すべてをかけた大勝負に打ってでた。生き方を変え、これから紅天女を演じようとしている、目の前の少女を手にいれるために。

―――真澄は、わしには永遠に手のとどかなったもの、そのすべてを己の手中に収めてしまうかもしれん。

体中にたぎるようなこの衝動が、真澄への嫉妬だ、と英介が気づくまでに時間はかからなかった。

「速水…会長。あなたは、私に何か言いにきたのではありませんか? そのためにわざわざ隠していた、ご自分の身分を明かされたのでしょう?」

マヤの言葉に英介ははっとして顔をあげる。さきほどまでは、どこか儚げで頼りなげだったのに、今のマヤは肝がすわったように、誰もが恐れる英介と本気で対峙しようとしている。やはりこの娘は面白い、と英介は口元を歪めるようにして苦笑する。間違いなく自分も、この少女に惹きつけられてしまっていると認めよう。しかし、そんなことは些細なことだと、あえて切って捨てる。

「急に察しがよくなったようだな」

 英介も背筋を伸ばして、マヤにぴたりと視線を合わせる。鋭い英介の視線を、全くひるまずに受け止めているマヤが、不思議と真澄の面影とだぶって、思わず目を細めた。

「今、真澄がやろうとしている、中央ラジオ社の株の買い集め、いわゆる敵対的TOBというやつだが、決められた期日までに、発行されている株式の、過半数を超えて取得せねば失敗に終わる。今取得している株はおそらく、4割強くらいだろう。そこまで株をかき集めたことは、鷹通グループ内の結束が弱まっているにせよ、敬意を表したいところだが、おそらくもう限界だ。鷹通も防衛策を講じてくるだろうし、あいつも、相当煮詰まっているに違いない。期日はもうそこまで迫ってきているからな。あんたの、紅天女の試演の三日後だ」
「三日後……」

マヤが呟く。

「ただしひとつだけ、打開策はある」

英介の言葉にマヤがぱっと顔をあげた。

「中央ラジオ社株を譲ってもいい、といってくれた人がいる」
「え、それは……」
「紫織さんだ」

 紫織の名前を聞いて、そのまま固まる。以前、稽古場まで押しかけてきた、紫織の恐いくらいに必死な眼差しが、マヤの脳裏を横切った。

「紫織さんも大株主の一人だ。一族との縁を、すべて切っても構わないから、株を真澄に譲りたい、そういってきた」
「紫織さんが……」

英介は頷く。

「余程、真澄に惚れているんだな。有難いことだ。紫織さんの持っている株式を真澄が取得できれば、めでたくTOBは成立する。だが、あいつはその申し出を断った」
「……」
「もし受け入れれば、紫織さんは一族を裏切り、敵にまわすことになる。そんな紫織さんを、株だけ譲ってもらって、放っておくことなどできない、と考えたのだろう」

 英介はコーヒーカップに手を伸ばし、口に含む。マヤの前においてあるパフェは、ゆっくりとその形状が崩れはじめ、彩りよく飾られていたフルーツが、ドロドロに溶けたアイスクリームの沼の中にゆっくりと沈んでいく。

「さて、これからが本題だ」

英介はゆっくりと指を組んで、テーブルの上に置いた。

「真澄の命運を握っているのは、マヤさん、どうもあんたのようだ。このまま、真澄が大都とともに崩れ落ちていくのを黙って見ているか、それとも助けたいと思うか。あんたの気持ち次第だがね」
「助けたい、……に決まっているじゃないですか。どうすれば、速水さんを助けることができるんですか?」

 英介に掴みかからんばかりに尋ねる。そんなマヤをじっと見つめたまま、英介は口を開く。

「真澄を助けたいのなら、取る道はひとつしかない」

 マヤの必死で無垢な瞳と、英介の淀んでざらついた視線が、交差する。

「お前さんが、真澄を捨てることだ」

大事なものを自ら粉々に砕くときのような、自虐的な笑みを浮かべ、英介は残酷なほど冷静に、そう言い放った。