電気もつけないまま、マヤは一人、布団にもぐりこんだ。麗は、つきかげのみんなと地方公演に出かけてしまった。戻ってくるのは、試演の前日であるあさってだ。それまでマヤは、ひとりぼっちで、地を這うような孤独と戦わなくてはならない。

もう試演まで日がないというのに、最後のクライマックス、一真の斧をその身に受けるシーンがどうしてもできない。自分の肉体が、消えてしまうことは、正直恐くない。むしろ彼のため、と喜んで受け入れられるのに、次の瞬間襲ってくる、一真との永遠に会えなくなってしまうのだ、という恐怖を、マヤはどうやっても制御することができなくなる。はっと我にかえって演技が止まる。マヤがそういう状態になってしまうと、桜小路は心配そうにマヤを見つめ、他の共演者たちはため息をついたりして、恐ろしく居心地の悪い空気が漂う。けれどその中にいて一人、黒沼だけは何の反応もしない。ただじっとマヤを見つめて静かに、『最初からもう一度』、そういうだけだ。そんな黒沼の言葉に、マヤの背中は、申し訳なさと情けなさで、震える。

原因はよくわかっている。あの、英介の言葉だ。何日たっても、頭の中のどこかで微かに響いている。

『お前さんが、真澄を捨てることだ』

紫織が、鷹宮の家を捨ててまで、真澄に株を差し出そうとしている。その株を得られれば、真澄は、鷹通グループに仕掛けている、株の買い集めに成功するのだという。けれど、マヤが彼から離れない限り、彼は絶対に紫織から株を譲り受けようとはしないだろう。

 ああ、でも。と、マヤは、思考の谷間に迷い込む。

どうしても真澄と繋がっていたい。離れたくない。あの夜、激しく抱きしめられ、魂が砕けてしまうようなキスを思い出すたびに、肌は粟立ち、心が焦げて、真澄の不在の苦しさを全身が訴え始めてしまうのに。どこまでもマヤを求める情熱的な唇を、手のひらの熱さを、体を砕いてしまうような強い抱擁を知らなければ、それも耐えられたかもしれない。けれどマヤはもう知ってしまった。元には戻れない。狂おしいほど、恋しくてたまらない。  

けれど真澄を救えるのは、紫織だけ。もともと似合いすぎるくらいに絵になる二人。これからの真澄の人生を考えてみても、紫織といたほうが間違いなく、真澄のプラスになる。
 そう自分を納得させようとしても、心の奥底で、もう一人の自分が、悲鳴をあげ、耳を塞いで拒否してしまう。

――――なにもかもが苦しい。眠れない。

  マヤはもぞもぞと布団から這い出ると、部屋の電気は消したまま、テレビのリモコンの電源をいれた。ニュースをみると、必ずといっていいほど大都と鷹宮の買収の攻防について報道されているから、マヤは、ここ何日かテレビをつけていなかった。薄暗い狭い部屋に、ぼおっとテレビの明かりが浮き上がる。画面には、甲高い声で何かを叫んでいるお笑い芸人が映る。もう深夜だから、ニュースもやっていないだろう、と画面をぼんやりと見つめ、チャンネルを切り替える。

 『……大都グループも、相当難しい局面に立たされましたね』

  はっとして、リモコンを押す指を止めた。画面には、どこかのビルからでてくる真澄が映し出されていた。記者やカメラに、もみくちゃにされて顔をしかめている。久しぶりにみる真澄は、顎のラインが削り取られたように細くなっていて、少し痩せてしまったようだった。ガードマンとマスコミがもみ合っている間に、真澄は黒い車に乗り込み、走り去った。深夜の時間帯、その日最後のニュース番組だった。美しい女性キャスターが、少し太った中年の経済アナリストに、話しを聞いている画面に切り替わった。

『……期日はもう目前に迫っているところで、中央ラジオ社は第三者割増増資を実施しましたね。これで大都グループがこの先、経営権を握れる、議決権ベース50%以上の株式を取得できる可能性は、非常に低くなりましたから、陣頭指揮をとっている大都グループの速水氏の責任問題に発展することは、おそらく免れないでしょう。この前代未聞の敵対的TOBは失敗に終わる可能性が……』

  マヤは、テレビの電源を落とす。ぷすり、と小さな音をさせて、テレビは息の根をとめられたように、なにもしゃべらなくなった。

 「速水さん、速水さん……」

  マヤは、消えてしまったテレビの残像なぞるかのように、真っ暗な画面を見つめていた。大きな瞳からぽろり、ぽろり、と涙が流れ落ちるのも構わず、しばらくぺたりとすわりこんだまま動かなかった。どれくらいそうしていたのだろう。マヤはいきなり、すいっと立ち上がった。それから涙をごしごしと手の甲でふいて、テーブルの上に置いてあった携帯を握り締めた。ひとつ吐息を吐いてから、ぱちん、と画面を開く。ぼんやりとした携帯の画面の光が、悲壮感漂う、決意を秘めたマヤの横顔を、青白く薄闇の中に浮かび上がらせた。



深夜十二時。大都ビルの窓明かりのほとんど消えている中、社長室の明かりだけは、煌々として消える様子がない。真澄は一人、パソコンの前でキーボードを叩いていたが、ふっと大きなため息をついて、背もたれに体を預け、目を閉じる。

中央ラジオ社の経営権を握るまで、あともう一歩というところで、鷹通は第三者割増増資を実施してきた。予想はしていたが、特定株主にだけ、株数が増やされてしまったのは、やはり痛い。市場にでている株はわずかで、しかも高騰してしまっている。TOBの期限はあと一週間。

真澄はおもむろに立ち上がると、窓辺にたち、ブラインドを上げる。都会のビルの瞬きが眼下に広がっている。窓ガラスに額をつけ、ぼんやりと地上の星たちを見つめる。押し寄せる疲れとともに、こめかみがずきん、と脈うって痛み、思わず眉をしかめる。

『私が所有しております中央ラジオ社株、すべて譲渡いたします。そうすれば、TOBは成功するのでしょう?』

何度も婚約破棄の話をしたものの、全く取り合おうとはしなかった紫織。やむえず、そのまま鷹通に敵対的TOBを仕掛け、鷹宮翁から、婚約破棄の通告を突きつけられた後は、音信不通になっていたのに、先日急に会社に訪ねてきて、開口一番に言った言葉だった。紫織は、空恐ろしいほど冷静で、けれど、全身全霊をかけて真澄と向き合っているのが、ひしひしと伝わってきた。

彼女は、真澄のためなら、一族と縁を切ることになっても構わない、とまで言い切った。鷹宮の深窓の令嬢として育てられた紫織の、激しいまでのその一途な気持ちに、正直真澄は驚かされたが、その場で丁重に、その申し出を断った。だが、首を横に振って薄く微笑んだ紫織が言った言葉が、いつまでも耳に残っている。

『私から買うしか、あなたに残された道はないはずです。私はいつでも、あなたに株を譲渡します。次にお会いするのは、紅天女の試演のときですわね。そのとき必ず、私に譲ってほしい、とあなたはおっしゃるわ』

真澄は微かに頭を振って、ため息をつく。

―――― 弱気になってはいけない。できうるすべての方法を模索しろ。五菱銀行の佐藤頭取との会談をもう一度、セッティングして……。

そう思った瞬間だった。二台ある携帯のうちの一台から、着信を伝えるメロディが鳴り出す。滅多に鳴らない、プライベート用の携帯だ。真澄はすぐに、スーツの上着から、携帯を取り出して、画面に表示された名前を見て、あわてて通話スイッチを押す。

「もしもし?」
『もしもし…?』
「マヤ…か? どうして携帯に電話を…」

 そうはいいながらも、疲れきった体に、久しぶりに聞くマヤの声は、じんわりと染み込んでいく。

『ごめんなさい。どうしても速水さんに、話したいことがあったから……』

その声はどこか堅い。思わず真澄は眉をしかめた。

「どうした。何があった?」
『お願いがあります』

真澄の言葉を振り切るように、そう切り出したマヤの声はぴん、と張り詰めていて、真澄もどこか緊張する。

「……なんだ?」
『紫織さんから、中央ラジオ社の株、買ってください』

さっきまで考えていたことを、マヤに見透かされたような気がして、真澄は思わず絶句する。

『速水さん、お願いします。私のことは、気にしなくていいですから』
「いきなり、なにをいい出すんだ。どうしてそのことを……」
『…お願いです。どうか、そうしてください。私は、紅天女になれるようにがんばるから。一人でも…大丈夫だから…』

マヤの掠れた声に、真澄は大きくため息をついて、はっきりと答えた。

「マヤ、聞きなさい。紫織さんからは株は買わない。誰からそんなことを聞いたのか知らないが、君が俺の心配などする必要はない。今は紅天女のことだけを……」
『違うの!』
 
マヤがヒステリックに叫んだ。

『あなたの心配をしているわけじゃなんです。私のため…なんです』

 その言葉に真澄は、すっと顎をひく。

「どういうことだ?」

 つながっている電波の上を、二人の沈黙が漂う。どれくらいそうやって押し黙っていたのか。真澄がなにかを話そうと口を開きかけたとき、マヤの声が、ようやく響いてきた。

『速水さんは、私のために、今タイヘンな思いをしているの?』
「君のためだけに、こうなったわけじゃない」

 真澄は簡潔にそう答えるけれど、マヤがきっかけになったのは間違いない。だが、自分の進むべき道を、自分の手で切り拓いている、という意識のほうが強い。

『でも、私が原因なんですよね……』

マヤがぽつり、と呟くから、真澄はすぐに言葉をつなぐ。

「君が気にすることじゃない。俺は自分が正しい、と思う道を進んでいるだけなのだから……」
『でも!!』

真澄をさえぎって、マヤが叫ぶ。

『私には…、私には、速水さんにそこまでされるのが、……苦しいんです! 重いんです!』
「マヤ?」

真澄は、掠れた声で呟く。

『…私は、あなたが、紫のバラの人だ、ということがわかってから、あなたのことを愛している、そう思ってきました。けれどここしばらく、紅天女を演じているうちに、あることに気づいてしまったんです』
「…あること?」

真澄の声が、微かに震えた。

『それは、感謝してもしきれない、紫のバラの人への感謝の気持ちを、……愛情だと、勘違いしてしまった、ということです』

真澄はもう、なにもいえなくなる。喉を締め付けられてしまったように、声がでない。

『あなたには、すごく、すごく感謝しています。感謝してもしきれない。でも、でも、……』

 マヤが何度も息を吸い込んで、なにかを言おうとしている。難産に苦しんでいる母親のように、産み落とそうとする言葉が、なかなか出てこない痛みの様なものが、じわりと伝わってきて、真澄まで苦しくなってくる。

『……、でも…あなたは…母さんを、死に追いやった、人。やっぱり……、あなたを愛することは、できない……』
 
ようやく出てきたマヤの言葉に、二人の間の沈黙はさらに重く、深く、垂れ込めた。 数十秒間、そんな沈黙が続いた後、真澄の携帯がぷつりと切れた……。