マヤの稽古場に程近いホテルの地下にある、ライトを落としたラウンジ。その目立たない奥まった席のほうに、聖が歩みをすすめていくと、黒髪がさっと揺れてマヤが振り返り、にこり、と嬉しそうに微笑んで、頭をさげた。

「マヤさん、お疲れのところ、お待たせして申し訳ありません」

 聖が詫びながら、マヤの前のシートに腰をおろすと、マヤはふるふると首を横に振った。

「大丈夫ですよ。私も今きたところだから。聖さん、おひさしぶりです」

 そういって微笑むマヤを、聖は眩しげに見つめる。最初に出会った頃は、ただただあどけなさの残る少女だった。それがいつの間にか、紅天女の主演を競うまでの女優に成長したのだ。あどけなさの上に淡く、女らしい、瑞々しい艶やかさと微かな憂いが、重ね塗りされた今のマヤは、男の注意を惹きつけずにはいられないだろう。真澄が心配するのもムリはない、と聖は思わず苦笑してしまう。

「やだ、聖さん、なに、思い出し笑いしているんですか?」

 マヤが不思議そうな顔をして、聖を見つめる。

「すいません。マヤさんがあまりにお綺麗になられたものですから、びっくりしていたんですよ」

 そういうと、暗いライトの中でもわかるくらいに、マヤが赤くなった。

「聖さん、いつからそんなに口がうまくなったんですか?」
「いえいえ。私はいつだって、思ったことしか言いませんよ」

 聖が穏やかに微笑んでそんなふうにいうと、マヤは恥ずかしそうに俯いて、目の前にあったオレンジジュースのグラスから伸びているストローを、つつく。そんな幼い仕草もとてもかわいらしい。

「さて、お忙しいマヤさんに、お時間を作っていただいたのですから、すぐに話をはじめなくてはいけませんね」

 聖が絶妙のタイミングで、そう切りだす。

「真澄様は今、多忙を極めていらっしゃいます」

 そういったとたんに、マヤは、はっとした表情を浮かべた。

「どうかされましたか?」

 聖が心配そうに問いかけると、首をふって、恥ずかしそうに微笑んだ。

「ごめんなさい。聖さんの口から、速水さんの名前が直接出るのは初めてだったから、やっぱり紫のバラの人は速水さんだったんだなあ、って実感していたんです」

そんなふうにいって、照れたように笑うマヤに、聖も思わず微笑む。

「ええ。真澄様はずっと昔から、マヤさんが中学生のころからずっと、あなたを見守っていらっしゃいましたよ。それは間違いない事実であることを、私が保証いたします」

聖の口調がおかしかったらしく、どこか曇り勝ちだったマヤの表情が、ふわりとほどけて笑う。そんなマヤを見つめながら、聖は頷く。

「真澄様は、今も変わらず、あなたのことをいつでも心配し、気にかけていらっしゃいます。ですが時間の面でも、そして諸事情からも、お会いすることも、電話はもちろん、メールでのやりとりすることすら、困難な状況はまだ続きそうです」
「そう、ですよね。速水さんは、大丈夫なんですか? 新聞やニュースで、大都と鷹通グループのことがいろいろ取り上げられているでしょう? なんだかとても不安で……」

ようやく広がった笑顔はあっという間に翳り、声をひそめて呟くマヤに、聖は頷く。

最近新聞、テレビでもさかんにとりあげられているニュース。それは、大都グループが、鷹通グループの中央ラジオ社の株を買い集め、のっとろうとする、いわゆる「敵対的TOB」を仕掛けたことだ。中央ラジオ社は、鷹通系列の中央テレビよりも時価総額が低いにもかかわらず、中央テレビの筆頭株主にあたる。それゆえ中央ラジオ社を押さえると、自動的に中央テレビも手中に収めることになるという、「ねじれ現象」を突いた、前代未聞のこの買収劇に、世間は騒然となった。鷹通のような名門に、日本ではほとんど例をみない、敵対的TOBをしかけようとする者などいなかった。しかも鷹通グループと友好的に提携をすすめていたはずの大都グループが、いきなり刃を向けたことに、新聞テレビは、同業ゆえの驚きと関心を強くもって、連日報道している。

 「真澄様なら大丈夫です。勝算がない勝負は、なさらない方ですよ」

  聖はそういって、マヤに微笑みかける。が、心の中では、真澄が今、どれほど厳しい戦いを強いられているか、痛感していた。なにしろまわりは敵だらけだ。保守的な大都グループ内でも真澄に対する批判は多数を占め、鷹通グループにいたっては不信感をむき出しにして、防衛策を講じている。そもそも鷹通はグループ企業内で、株を持ち合っているから、それらを切り崩そうとすることはかなりの困難が伴う。けれどそれらは、怒り狂った鷹宮翁が、孫娘と真澄の縁談を破棄する、と言い出したことと同じように、真澄には想定内のことだったはずだ。しかし、気になるのが、英介だ。英介はこの騒動発覚後も、ずっと沈黙を守っている。英介の動きに対しても聖は目を光らせていたが、現段階では目立った動きはなかった。真澄といえば、精力的にこの難題を打開しようと突き進んでいる一方、マヤのことにも細やかに目を配り、紅天女についても、いつでも動けるよう、手筈を整えている。その並外れた行動力の源は、目の前の彼女なのだろう。 
 
 「試演まであと一週間ですね。どうですか、稽古の具合は?」

 眉をひそめ、心配そうな表情をしていたマヤに話を向ける。

「あ、ええ、だいぶ、紅天女を掴めてきた、っていう実感はあるんです。でも、もうあと一歩足りない、というか、まだ納得がいかない、というか。自分でもそれはすごく感じているし、黒沼先生にもそういわれています」

 そういってマヤはその瞳を遠い彼方にぼんやりと向ける。その儚いような表情の中に漂う、微かな色香のようなものは、紅天女の影なのか、真澄の影響によるものなのか。ただ、確実に、マヤの中に紅天女が宿りはじめていることが、聖ですら、感じ取れるようだった。

「マヤさんが紅天女になられることを、真澄様は心より望んでいらっしゃいます。鷹通との一件で、非常に多忙な日々が続いていらっしゃる合間にも、いつでも、あなたのことを想い、そして応援していらっしゃいます。紫の影でいらしたときから、それはずっと変わりません」

 マヤは聖のその言葉を聞くと、照れたような柔らかな微笑みを浮かべた。

「聖さんの言葉を聞いていたら、なんだか、速水さんにそういわれているような気分になってしまいました」

 そんなマヤを見て、聖も笑顔で頷く。

「マヤさん、あなたからも真澄様になにか、お伝えすることがあれば」

 マヤは静かに頷き、視線を宙に泳がすと、ゆっくりと口を開いた。

「どうか、体にはくれぐれも気をつけて、ムリしすぎないでくださいって伝えてください。私も頑張っています、って」

そのとき、マヤの大きな瞳には、大粒の涙が光り、あわてて目頭を押さえたから、聖ははっとした。

「どうされましたか?」
「ご、ごめんなさい」

 そういって、ふわりと照れたように笑う。

「なんだか、勝手に涙がでてきちゃった。おかしいですね」

 そういって、崖の上に、けなげに咲いた小さな花のような笑顔を浮かべたマヤを、目を細めて見つめた。
マヤと真澄。直接会うことは許されない状況にありながらも、お互いに相手のことをひたむきに想い、深く愛し合っている。頭ではわかっていたその事実を、はっきりと目の前のマヤの中にも見てとり、真澄の気持ちがようやくマヤに届いたことに、深い感慨を感じた。その一方で、そんな愛情など、誰にも求めても得ることが許されない聖の心は、ざわめくように揺さぶられたことに、彼自身驚く。
 真澄に代わって、自分も、長い間彼女を見つめていたのだ、ということに、今更ながら、気づかされた思いだった。敬愛する真澄の視線に進んで同化し、彼女の成長を見つめ、思いが通じない痛みに共に胸を痛めているうちに、いつのまにか自分までマヤに惹かれてしまっていたのかもしれない。聖は苦笑しながら、首を振る。

「あなたの紅天女を見ることを、あの方はどれほど心まちにしていらっしゃることか。必ずあなたにまた、紫のバラをたくさん贈られることでしょう」
「今の私にできることは、試演で紅天女を見事に演じて、あの人に喜んでもらうことだけですもんね」
 
 マヤがひとつ、ため息をつきながら、どこか遠くを見つめる。その瞳は、会うことがかなわない真澄に向けられているようだ。
 あれほどまでに苦戦を強いられる戦いをしているというのに、真澄にどこかすがすがしささえ感じられるのは、ずっと恋焦がれていたマヤに、こんなふうに想いをよせられているのを、はっきりと感じているからなのかもしれない。 

  近況について、他に二つ三つ、聖が尋ねたあと、マヤが腕時計に視線を落とした。それに気づいた聖がさりげなく、伝票を掴む。

「そろそろマヤさんを解放しなくてはいけませんね。あなたもお疲れでしょう」
「あ、ごめんなさい。今日は元気なんですよ。黒沼先生が、最後の息抜きだ、とかいって今日は午前中で稽古を切り上げたし。だから、珍しく時間が空いて、この後も約束を入れてしまって」

 そういって、マヤは携帯をぱちん、と開いて、メールかなにかを確認している。

 「このあと? お友達、ですか?」

 聖が控えめに問うと、マヤが小首をかしげた。

「お友達、といえば、お友達なのかな?」

 などと暢気にいう。

「マヤさん、今はとても大事な時期ですから、へんな輩に付け狙われることもあります。ですから……」
「あ、それは大丈夫ですよ。ずいぶん前からの知り合いなんです」

 マヤは無邪気にそう答えるので、聖もそれ以上突っ込んでは聞けない。

「それなら、その待ち合わせ場所までお送りしますが……」
「あ、気を使わないでください。だって、ここからすぐの所なんですもの」
「そうですか…わかりました。ではどうぞくれぐれも気をつけて。マヤさんもなにかありましたら、すぐ私の携帯のほうへ連絡してくださいね。一週間後にみられるあなたの紅天女、私も楽しみにしております」
「ありがとう聖さん。がんばります。それから…」

 マヤが一瞬俯いたあと、ゆっくりと顔をあげて、微笑む。柔らかなその笑顔に、聖は目を細める。
「速水さんにも、くれぐれもムリしないようにと、必ず伝えてくださいね」
「わかりました。お伝えします」

 ぺこり、と頭をさげて去っていったマヤ。その後ろ姿を見つめながら、聖は、なんともいえない胸騒ぎに襲われた。マヤの後ろ姿が、どこか儚げにみえたせいかもしれない。気のせいだろうと、ため息をつく。聖も、マヤのことから鷹通グループとの情報戦においても、大きな役割を果たしているため、時間はいくらあっても足りない。一瞬表情を曇らせた聖も、すぐに立ちあがり、自らの気配を上手に消して、早々にラウンジから立ち去った。



画 / 双子魂管理人