「今、なんて…」

 料亭の奥座敷で真澄とふたり、むかいあっている紫織が、やや震える唇をかみ締めるように呟いた。真澄は、そんな紫織をじっと見つめたままだ。二人の前にある、品のよく盛り付けをされた皿には、全く手がつけられていない。

「あなたとの婚約を解消させていただきたい、そう申し上げました。近々私は、あなたのおじい様や、お父上を激怒させることになるでしょう。紫織さんとは関係のない、業務提携上の問題です。それは避けられないことになりそうです。これは私が至らなかったゆえの事態であり、あなたには落ち度はまったくありません。いつでも私に対して、誠意をもって接してくださっていましたあなたには、そうなってしまう前にあなたと、ちゃんと話をしたかったんです」
「真澄様…」

少しも隙のない端正な顔立ち。クールで落ち着いた振る舞い。その業界では、鬼と怖れられているらしい彼は、紫織の前ではいつでも紳士で優しかった。けれど、いつもどこか、遠くをみて、その心はどこか遠くをさ迷っているようだった。それでも、紫織は、彼の妻となれば、きっと心も自分に寄り添ってくれるようになるに違いない、そう信じていた。それなのに。ずっと見ないふりをしていた煙が、とうとう炎となって、自分を焼き尽くそうとしている。紫織は身震いをおぼえ、その煙から必死で逃げるように、口を開く。

「私は、家同士の思惑など関係なく、あなたをお慕いしております。業務提携がうまくいかなくても、祖父や父がなんといおうと、私はあなたのおそばにいたいのです。家を捨てても構いません。それはあなたにとってご迷惑なのでしょうか」

すがるようにそういうと、真澄が、微かに困惑するような色をその瞳に浮かべたのを、紫織は見逃さなかった。感覚が鋭敏になっている紫織には、真澄の意識の向こうに、間違いなくマヤがいることを感じ取る。しばらく沈黙があったあと、ようやく真澄は口を開いた。

「私に寄せてくださるあなたの思いは、とても有り難く思っています。けれど、その思いに応えることはできないのです。申し訳ありません」

そうやって頭をさげた真澄は、いつものクールでどこか人を寄せ付けない雰囲気はなく、彼本来がもっていたのかもしれない、まっすぐで真摯な眼差しをしていた。ようやく素顔に近い真澄に触れた。そう思えたのが、別れ話のときとはひどすぎる。紫織は涙が浮かびそうになるのをぐっとこらえた。自分も本気で彼に向かおう、と決心する。今、そうしなければ、永遠に真澄を失ってしまうのだ。なんのためらいもなく切り札を出す。

「あなたが婚約解消を言い出された本当の理由は、マヤさん、なのでしょう?」

 真澄は、かすかに眉をよせたものの、そのままじっと紫織を見つめていた。

「あなたが『紫のバラの人』として彼女を援助してきたことを存じております。そして並々ならぬお気持ちを、マヤさんに対してお持ちでいらっしゃることも。けれど、それとこれとは別ではありませんか? 一人の女性のために、あなたの前途ある未来すべてを棒にふるような、そんな危険を冒す必要などあるのですか? もし、あなたがあの方を、…この先も援助されていきたい、というのならば私は構いません。どうぞ、お気の済むようになさってください。それでしたら、婚約を解消する理由もないですし、あなたの将来も約束されたままになります」

暗に、マヤを愛人として囲えばいい、そんなニュアンスを漂わせた言葉を真澄に伝えた瞬間、違う、そうじゃない、と紫織の心のどこかが悲鳴をあげたが、あえてそれには気づかないふりをした。真澄はしばらく黙っていたが、ふっと口を開いた。

「先日、北島にわざわざ会いに行かれたとか。あなたは、私の好意を勘違いしていけない、と彼女におっしゃったらしいですね」

真澄の淡々と話しの方向を変えてしまったことに、紫織は、手にもったハンカチを思わず握り締めた。

「あなたがどうして、私が北島に援助していたことを知っていたのか、それについては何もいいません。それにもう……彼女には私の援助など必要ありません。紅天女を競うような女優に成長したのですからね」

そんなことを言う真澄に、紫織ははじかれたように、思わず口を開いた。

「あなたは、肝心なことをおっしゃってはくださらない」

真澄の本心を知りたかった。いや、それは紫織が一番恐れていたことであったはずだった。けれど自分は、真剣に真澄に向き合おうとしているのに、一番大事なことをはぐらされてしまうのがたまらなかったのだ。無意識のうちに、真澄を煽るような言葉を口走っていた。

「私、マヤさんにお会いしたときに申し上げました。真澄様はきっとあなたを利用しようとしているに違いないと。あなたがマヤさんのお母様を死に追いやってしまったことだって、結局は会社のためだったのでしょう。使い捨てにされないように身を守られたほうがいい、って申しましたわ。そうしたらマヤさんは、ひどく狼狽されて……」

紫織がそこまで叫んだとき、真澄が静かに、けれども厳しくさえぎった。

「紫織さん」

 虚をつかれたようにびくりとして、紫織は口を閉ざした。

「あなたを傷つけてしまった責任は、すべて私にあります。ですから、私はあなたにどんなに詰られようと、何も言える立場にはありません。ですが……」

口許を引き結んだだけで、ほとんど表情を変えていないのに、真澄のその瞳には強い意志と激しい怒りのようなものが滲んでいた。

「ですが今後、北島に対して、今おっしゃられたようなこと事を含め、圧力を加えるような行為をされることは、断じて許すことはできません。もし仮に、あなたが今後、北島に対して何かされるようなことがあったら、断固とした処置をとることになります。けれど私は……あなたに対して、そういうことはしたくないのです」

ようやく真澄は本音を吐き出した。そのことをずっと恐れおののいていたはずなのに、紫織は不思議な安堵感さえ感じていた。見えない敵ほど恐いものはない。紫織は思わず、ふふ、と微笑んだ。微笑んだとたんに、笑いがこみあげてきて止まらなくなった。口に手をあてて、止まらない笑いを抑えようとするけれど、どうしようもない。

「紫織さん?」

 微かに動揺したような真澄のその声に、どうにか笑いを抑える。

「やっと自分のお気持ちをおっしゃってくださった。あなたはひどい方だわ。世間知らずの私を夢中にさせておいて、マヤさんと気持ちが通じたから、……と放りだしておしまいなる。そんな方が果たして、…マヤさんも幸せにすることなどできるのでしょうか?」

声が震えて、舌がもつれていた。そのとき自分は泣いていたのだと、紫織は初めて気がついた。真澄はそんな紫織を、息を殺すように静かに見つめている。

「あなたが、マヤさんを愛し続けて、ずっとあきらめられなかったように、私も、あなたに出会ってから、あなたをお慕い続けて参りました。そんな気持ちを、急に変えることなどできないことを、あなたご自身がよくご存知なはずです」

紫織はハンカチで涙を拭き、微笑みながら真澄に問いかけていた。

「私は、あなたと婚約を解消するつもりはありません。たとえ祖父や、父が、反対したとしても……」

 そういって立ち上がろうとすると、いつも貧血が襲ってきて、紫織はふらっと体を揺らめかせた。

「紫織さん!」

 真澄があわてて立ち上がって、支えようとしたが、紫織はその手を振りはらった。

「大丈夫です。一人で、……立てます」

 紫織は距離が近くなった真澄を見上げた。心配そうに細められた目。いつだってこの優しさが、彼の愛情なのだと自分に思いこませようとしていた。けれど今、こういう気遣いは、ただ胸を苦しくさせるだけだった。それでも。この人を諦めることなどできない。はじめて愛した人なのだ。

「帰ります。ご機嫌よう」

紫織は俯いたまま、ゆっくりとした足取りで、座敷を出て行った。
その頼りなげな、後ろ姿を見送ったあと、真澄は、誰もいなくなった座敷でひとつ、大きくため息をついた。そして、目の前にあった、温くなってしまった冷酒の杯を一気にあおった。日本酒の強いアルコールが、喉元を焼くようにして、一気にとおりすぎていく。

「くそっ」

そういって、乱暴に杯をテーブルに叩きつけるように置いた。

――― そんな方が果たして、…マヤさんを幸せにすることなどできるのでしょうか?

紫織の声が、真澄の耳の奥でこだましている。いったんはマヤを諦め、紫織と結婚しようとした。妻としてこの人なら、穏やかな家庭を築いていけるだろう、とも思ったのだ。しかし今、あんなにひたむきに自分を思ってくれている紫織を捨て、マヤとの未来を勝ち得ようともがいている。
確かに、紫織のいったとおり、そんな自分には、マヤを幸せにする資格すらないかもしれない、と真澄は思う。紫織の、真澄に対する切実な瞳は、マヤを追い求めてきた自身にも重なった。マヤを好きなくせに散々苦しめ、追い詰めてきた。そんな罪深い自分を、好きだといってくれたマヤ。そんなマヤのためにも、いままで嘘、偽りにまみれた自分をぶち壊して、すべてのものに真正面から向き合い、正直に生きていくしかない。このまま嘘で塗り固められた人生など、結局まわりにいる人すべてを巻き込んで、不幸にするだけなのだから。

 開け放たれた障子の向こうには、月も星も全くでていない漆黒の闇が、日本庭園を包んでいる。風がでてきたのか、庭先にある笹の葉が、真澄の視界のはしで、小波のように揺れている。しばし、その風景を瞳に映したまま、思考だけを闇夜の中に彷徨わさせる。

 ――― 戦いは始まったばかりだ。

 真澄は視線をまっすぐに、出口に向けると、そのまますっと立ち上がり、部屋から出ていった。