「社長、おはようございます」

 水城は、ブルーマウンテンを淹れたコーヒーカップをお盆にのせて、社長室に入る。ゆっくりと執務机に近づくと、真澄は新聞から静かに視線をあげた。

「おはよう」

 さらりと挨拶を交わす。いつもと変わらない真澄だ。だがあきらかに、彼の雰囲気は変わった、と水城はしみじみと思う。基本的に寡黙で余計なことはしゃべらないから、ぱっと見ではその変化はわかりにくいし、言葉で表現するのも難しい。
かつて真澄は、その仕事ぶりは、緻密で周到であるにも関らず、彼自身は達成感に酔うどころか醒めていて、空虚感のようなものがたびたび、その瞳に瞬くのが見てとれた。それでも、完璧に、冷徹に、仕事は成しえていく。そのアンバランスさが、ある意味彼の魅力だった、と思う。

そんな真澄が、ずっと思いを寄せ続け、こちらがもどかしくなるほど、臆病になっていた、あの天才女優と思いが通じたのだという。その事実が、本来もっていた強い闘志と情熱を呼び覚まし、体の芯から真澄を奮い立たせ、はじめて本気で、自分の人生に対し、 真っ向勝負を挑ませようとしている。すさまじいまでの強い意思が、彼自身から、透けてみえるようだ。そんな真澄を応援することになんの迷いもなかったが、不安定で、孤独を抱えていた真澄が消えてしまったことへの、一抹の寂しさも感じてしまう自分に、水城は微かな戸惑いを覚えていた。

コーヒーをもってきたというのに、お盆の上に置いたまま、ぼんやりと自分を見ている、水城に真澄は苦笑した。

「どうした? 俺の顔になにかついているのか?」
「あら、申し訳ありません」

 カップを静かに真澄の目の前に置くと、水城はにこりと微笑んでみせた。

「社長の雰囲気がなんだか変わられたな、と思って見とれておりましたのよ」

 そういう水城に、真澄は苦笑する。

「なんだ、それは」
「さ、冗談はこれくらいにいたしまして」

 水城がそういうと、真澄は軽く肩をすくめてみせた。

「例の件、いよいよ準備が整ったようです。社長のゴーサインで、いつでも動けます」
「そうか」

 そういって真澄は、獲物を狙う前の肉食獣のような、とぎすまされた不敵な笑みを浮かべた。自分の人生を賭けた、大勝負が始まることの迷いや気負いなど、微塵も感じさせない。そんな真澄に水を差すようで、一瞬口ごもったものの、やはり伝えるべきだと、水城は口を開いた。

「紫織様から、昨晩またお電話がありました。折り返しはいらない、とおっしゃっていらしてましたが……」
「わかっている。昨晩電話した。今晩、会うことになっている」
 
真澄は表情を変えずにそういったが、おそらく紫織にとってつらい日々のはじまりになるかもしれない、と水城は微かに胸が痛む。

 そのとき執務机の上の電話が鳴り、真澄がゆっくりと受話器をとる。

「速水だが…、はい、私です。おはようございます。ええ。今からなら30分くらいでしたら。ええ、わかりました。これから伺います」

 電話を受話器に戻すと、きたか、と小さく呟き水城に声をかけた。

「親父に呼ばれた。ちょっとでてくる。長引くかもしれないから先に、朝の会議の資料、各担当者に渡しておいてくれ」
「かしこまりました」

 真澄は上着をさっと羽織り、机の引き出しから書類の束を掴みとった。真澄が人生のすべてを賭けた勝負が、とうとう動き始める。

「真澄様」

 水城は我知らず、ドアノブに手をかけた真澄を呼び止めてしまっていた。ゆっくりと振り返った真澄の瞳はもう、先を見据えている。

「私はずっと真澄様についていく所存です。どうぞご存分に動かれてくださいませ。ご武運をお祈りしておりますわ」

 水城の真剣な口調に、真澄は大げさな、とでもいうふうに口元を緩める。それでも微かに頷くと、なんのためらいもなく部屋から出て行った。ぱたり、としまったドアの音が、やけに耳に響いた。水城はしばらくそこにたたずんでいたが、ふっと微笑んで頷くと、背筋を伸ばして社長室から出ていった。


「真澄です」

 会長室の前で、臆することもなく、通る声でそういう。一瞬間があったあと、英介のだみ声が響いた。

「入れ」

会長室の重厚なドアを開けると、英介が、部屋のまんなかに置いてある、会長席から、真澄のほうをじろりと見た。

「おまたせして申し訳ありません。今日は社にいらしていたんですね」
「説明してもらおうか」

 英介は怒りを抑えたような低い声で、畳み掛けるようにそういうと真澄を睨んだ。

「鷹通グループとの提携についての動きが、一切止まったようだな。鷹宮翁から、お前がありえん要求ばかりしてくる、とクレームがはいった。一体どういうことなんだ?」

 英介は、怒りを含みながらも、目は冷静に真澄の様子を注視している。

「先方には、提携に関する話し合いはひとまず、保留させていただきたいと伝えました。今はあの「紅天女」の試演前ですし、なんといっても鷹通との提携によって得られるメリットをできうる限り高め、有利に話しを進めたいという思いがありましたから。当初の予定通り『どれもこれも』提携し、鷹通の不採算部門に足をひっぱられたら意味がありません。時代の流れが変わったのですから、取るもの、捨てるものを徹底的に見極めることは、至極当然なことです」

 びりびりとガラスさえもヒビがはいってしまいそうな英介の視線にも、真澄は全く動じる気配もなく、背筋を伸ばしたまま、静かに説明する。

「もっともらしいことを言う」
「こちらに資料をまとめましたので、ご覧になってください」

 真澄は、英介の前に、小脇に抱えていた厚みのある資料を、静かにおいた。英介はその束をもちあげ、ぺらぺらとめくってみたが、すぐに机の上に放り出して、真澄のほうへ向き直った。

「鷹通グループにおいては、メディア部門以外はすべて赤字です。もちろん昨今の経済危機の影響が大ですが、基本的には旧態依然とした経営が足かせになり、グループ全体の収支を圧迫しています。黒字を出しているメディア部門においても、従来型の新聞、テレビラジオなどの媒体はこれからの時代、変革をせまられています。ですが、鷹通グループの古い体質が色濃く残った経営下では、改革も期待できず、将来もこのまま採算がとれるかどうかはおぼつかない状態です。当初の取り決めのとおりの提携をすることになれば、毒をくらわば、皿までも、っていうことになるでしょうね」
「いまさら、そんなことをお前に言われなくてもわかっておる」

 英介は、机の上にあったお茶をごくりと飲みほすと、低いだみ声で一喝した。

「そんなものは提携後にお前が鷹通に乗り込んで、うまく舵取りをすればいい話だ。そのために鷹宮から嫁をもらうんだぞ。鷹通のネームバリューは、成り上がってきたわが社にとっては、圧倒的な強みがあることは、お前もよくわかっているだろう」
「お言葉ですが」

 真澄は、じっと英介から視線をはずさない。

「余計なお荷物まで背負う義理まで果たしていたら、この時代、生き残ってはいけません。今、企業とって大事なのは、筋肉質で柔軟性のある体質です。余分なものをそぎ落とし、時代の流れに敏感に反応しながら、付加価値のあるものを提供できなければ、すぐにでもライバル会社に蹴落とされます。昔の威光を笠にきただけの企業など、なんの価値もありませんよ」
「わしに説教など、百年早いわ」

 英介が、吐き捨てるように呟くと、鋭い眼光をより一層ぎらつかせて、真澄をにらみつける。

「ようやくここまで段取りをつけてきたのに、お前は、鷹通との提携をぶち壊すつもりなのか?」

 真澄は静かに目を伏せ、ため息をつく。それからおもむろに顔をあげた。その目は爛々と強い光を放っていて、英介ですら一瞬、気圧されそうになる。

「ですから、提携しないなどとは一言もいっておりません。提携するグループ企業を選別すべきだ、と申し上げただけですよ。鷹通の中で提携するなら、本丸の、メディア部門だけでしょう。後の鷹通グループ企業は、はっきりいって大都には不必要です」

 英介は腕を組んでじっと真澄をみつめたままだ。

「ただ鷹通側も、われわれに本丸を明け渡すつもりなど、毛頭ありません。おそらく、今回の提携にしてもグループ規模の相違もあり、大都グループの中枢には何人も役員を送りつけてくる心積もりのようですが、こちらには、不利な条件を押し付けてくるばかりです。それなら、とこちらもはじめから、メディア部門との提携に的を絞って話し合いをしているだけです」
「それができれば、最初からしておる。実際、そんなことを言い出せば、波風が立つのは必至だ。だからこそ、紫織さんとの婚姻関係がそこで役にたつのだろう」
「婚姻関係に頼って、なあなあで提携するなんて温いことをしていたら、大都グループの将来も危うくなります。あくまで将来を見据えて、ビジネスライクにやるべきでしょう」
「お前、それがどういうことかわかっているのか?」

 たいていの人間が震え上がるような、英介の怒気を含んだ鋭い矢のような言葉にも、真澄はひるむどころか、ふっと口元を緩めてさえみせた。

「ええ、わかっているつもりです。リスクをとらなければ、本当にほしいものなど、掴めません。お義父さん、あなたがそれを一番よく理解されているはずです」 

 真澄と話しながら、英介はどこか感じる違和感を拭えなかった。真澄が、いつもと違う。ふてぶてしいくらいに冷静なのは以前とかわらないように見えるが、隠そうとはしていても、どこか異様に熱を帯びている。懐にナイフでも隠し持っている刺客のように、息をひそめてこちらをうかがっているような気配を、英介は真澄の中に敏感に感じ取っていた。数多くの修羅場をくぐりぬけ、現在の財と地位をなした英介は、こういったときに感じる勘を、おざなりにしてならないことを、熟知していた。
 
「お前、なにをたくらんでおる?」

探るように、じっと真澄を見つめている英介に対して、真澄はすっと顎を引くと、涼やかに微笑んでみせた。

「いいえ、なにも。ただ、やるべき事を、やるべき時に、やる。そう心得ているだけです」
「ふん」

 英介はくるりと、車椅子を反転させ、ため息を大きくついた。

「とりあえずお前のいうことはわかった。ただし、わしにも考えがある。そのことは覚えておけ」

 英介がそういい捨てると、真澄の眉がわずかに上がったが、すぐに口許にすっと挑むような笑みが浮かんだ。

「わかりました。私はこれから会議がありますので、これで失礼いたします」

 背を向けた英介に軽く一礼すると、真澄は早い足取りで会長室から出て行こうとした。

「真澄」

 英介が低い声で呼び止める。ぴたりと歩みを止めて、一瞬、間を置いたあと、真澄が振り返る。

「なんでしょう?」
「最近紫織さんとは会っているのか?」

 その問いに真澄は一瞬動きを止め、やや口元を歪めるように笑った。

「最近、仕事にかまけて、なかなかお会いする時間がありませんでしたが、今日は一緒に夕食をとる予定です」
「鷹宮翁が紫織さんに元気がないと、心配しておったぞ。お前の朴念仁加減はよく知っておるが、少しは気を使え」
「わかりました」

 感情のこもらない声でそう答えた真澄は、もう一度頭を下げると、つかつかと会長室からでていった。その長身の後ろ姿をちらりと横目で見送ると、英介はもう一度大きなため息をついた。いつの間にか真澄が、自分のコントロールできる範疇から、もうすでに飛び出してしまったような、いやな感じが英介の中によぎった。養子になってからずっと、仕事のイロハを徹底的に叩き込み、あそこまで成長させてきた。自身の感情を心の奥底に押し殺すように、どこまでも冷徹に、仕事ばかりしてきた真澄だが、それも大都の跡取りとしては、丁度いいと、気にもとめなかった。が、さきほどの真澄は、明らかにいままでとは違う。間違いなく、真澄自身の強い意志によって、なにかを始めようとしている。

しばらく一人、そうやって黙りこくっていた英介が、おもむろに受話器をとった。

「わしだ。真澄の身辺、動向を調べてほしい。……ああ、できるだけ、早く頼む」