車に乗った後も、真澄は一言もしゃべらない。けれど、真澄の左手はずっとマヤの右手を握り締めたままだ。マヤの少し冷えた手は、あっという間に真澄からの熱を吸収して、湿り気を帯び始める。マヤのどこか落ち着かない心とは裏腹に、車のエンジンは心地よい音を響かせて、ネオンまたたくビルの合間を、順調に走り抜けていく。器用に片手だけで運転している真澄の、相変わらず無表情な横顔を、マヤはちらりとみた。

「どこへ、行くんですか?」

思い切ってもう一度尋ねると、真澄は少し間をおいてから、答えた。

「そんなに遠くにはいかない」
「また、答えになってない…」

 マヤがため息交じりにそう呟く。

「そうだな」

 真澄はまっすぐ前をみたまま、ふっと苦笑するように口もとを緩めて、マヤの手の甲を親指ですっとなぞった。今日ようやく見せてくれた笑顔。そして彼の親指が、手の甲に残した軌跡。それらに、マヤの心臓はごとり、と音をたててさらに加速する。体の一番深いところにひっそりとあるはずの、魂とか、気持ちとか、心とか。そういうものすべてが、無条件にざわめいて真澄に反応してしまう。まるで満月の夜の、引力の導かれた満潮の海のように。マヤはただただ、真澄の横顔を見つめるしかなかった。

真澄が車を止めたのは、お台場にある海岸の公園だった。対岸にはビルやホテルのネオンが闇色の空と海に溶けて淡く光り、海の上には、停泊している船のライトがぽつぽつと瞬いている。

「気持ちいい」

 さきほどまでの緊張感を一気に開放してしまうような潮風が、マヤの髪の毛を大きくなびかせる。海を見渡せる高台に廻らされた柵から、身を乗り出さんばかりにして、昔からなじんだ潮の香りを深く吸い込み、遠くまで広がる黒い静かな海を見つめた。

「そうだな」

 真澄がぽつり、とそれだけ呟いたので、マヤはそっと真澄のほうを振り返ると、じっとマヤを見つめる瞳とぶつかった。

「紫織さんは君に何を話したんだ?」

 さきほどまでの無表情さは消えたが、その瞳はどこか悲しげで、そして切実さのような何かが滲んでいた。真澄の気持ちが、ゆっくりと自分の中に溶け込んできて、マヤまで胸が苦しくなってくる。マヤは重たい口を開く。

「紫織さんは……、私のことを応援してくださるそうです。速水さんの『お気に入り』の女優として」
「それで?」
「…だけど、速水さんの『好意』を勘違いしちゃいけないって……」

 それ以上のことは、今はいいたくなかった。マヤの母親のことが引き合いにだされたことも、紫のバラのことを紫織が知っていたことも。けれどもマヤの言葉を聞くと真澄は吃驚したように目を見開き、しばらく難しい顔で黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。

「君にはいやな思いをさせたな。すまない」

 真澄は風に煽られたマヤの髪の毛を優しく耳にかけた。

「俺のミスだ。紫織さんが、そんな行動をとることを、予想できなかった。もう、これからは、そんなことで君を煩わせない」
「速水さん……」
「急いては事を仕損じる。そう思ってかなり慎重に動いてきたが、そうもいっていられなくなったな」

 真澄は厳しい視線を、水平線のかなたに向ける。寄せては返す波の音だけが、静かに二人の会話を縫うように響いている。

「速水さん、すごく忙しいんでしょう? 私は嬉しいけれど、会食を抜けて、私なんかと一緒にいて大丈夫?」

 どこか張り詰めた表情の真澄が心配になり、思わず尋ねてしまう。真澄はため息をつきながら、風になぶられ、乱れた前髪をかきあげた。

「桜小路に告白されていたな」
「速水さん……聞いていたんですか?」
「聞きたくもないのに、聞こえたんだ」

 スーツの上着を脱ぎ、ネクタイもとってしまった真澄は、仕立てのよい白いシャツの襟元を緩め、柵によりかかるように海に背を向けると、天を仰ぐように視線を空に向けた。大きな組織のトップにたち、社内外の敵と戦っている青年将校のような真澄は、 普段は一分の隙なくスーツを着こなし、クールな表情を崩さない。けれど“武装”を解いた今は、いつもよりはるかに若々しく、そしてぞくり、としてしまうような色気を漂わせていて、マヤは目が離せなくなる。

「わざわざ俺自身ではまりにいった落とし穴で、身動きがとれなくなっている間も、君はどんどん大人になり、きれいになっていく。紅天女に決まれば、それはさらに磨きがかかるだろう。そうなれば、桜小路だけじゃなく、もっと多くの男たちが君を放ってはおかなくなる」

 そんなことをぼつり、と呟いた真澄に、マヤは呆気にとられる。

「速水さん、どうしちゃったんですか? それって買い被りすぎです。私に限ってそんなこと、あるわけないじゃないですか。それに、桜小路君には、ちゃんと自分の気持ちは言ってあるし……」

 真澄は苦笑し、マヤの頭をくしゃりとなでる。

「相変わらず、君には自覚っていうものがまるでないな、チビちゃん。天然にもほどがある」
「なにそれ。どういう意味ですか?」

 マヤが頬を膨らませて見上げると、真澄はおもむろにマヤの腰に腕をまわし、ひゅっとマヤを体ごと持ち上げた。

「きゃっ! は、速水さん、な、なにするんですか!」

 抱き上げられて、柵の上に座らされると、目線が真澄と同じ位置になる。まぢかでみる茶色の瞳は、まっすぐにマヤを見つめ、逸らすことを許さなかった。

「あんな告白を聞かされた俺が、どんな気持ちだったかわかるか? 正々堂々と君にあんなことがいえる奴にたいする、ぶち切れそうなほどの嫉妬や、黙ってそれを聞いていることしかできない、今の自分に対する激しい自己嫌悪、それに早く身辺を整理しなければ、遠くない将来、君を失ってしまうかもしれないという恐怖とで、頭の中がぐちゃぐちゃになった」
「速水さん」
「で、混乱したまま、君をここまで拉致してしまったという訳さ」

 真澄は自嘲するような、どこか寂しげな笑顔を見せて、目を伏せた。真澄の心の痛みが、静かに、それでも強くマヤの中に流れこんできて、思わず彼の腕をそっとつかむ。

「どうしてそんなふうに思うの? 速水さんが婚約したときから、ずっと苦しかったのは私のほうですよ? 昔から、会えば言うことはイジワルだし、厭味は言うし、バカにするし、もう大キライって思っていたのに、……あ、ごめんなさい」
 
真澄が『大キライ』に反応して眉をあげたので、思わずマヤが謝ると、苦笑した。

「そう、思っていたくせに、速水さんのことが気になって仕方なかった。好きだって、気づいた後には、婚約の事実が苦しくってせつなくて、毎日胸が張り裂けそうだった。婚約パーティのときなんか、ものすごくお似合いの二人の姿をみせられて、どれくらい泣いたかわかりますか? それなのに速水さんったら、まだ起こってもいないことで、気に病むなんておかしい」

 マヤがえっへん、と胸を張るようにして、話す。いつも説教されている自分が、真澄を説教しているのが、なんだかおかしかった。

「そうなの…か?」

 真澄が目を細め、マヤを見つめている。その深く、柔らかい愛情にくるまれてしまうような視線に、胸がドキドキするのを抑えられなくなる。

「そうですよ。だって…あなたみたいな人が、私を好きでいてくれるなんて、今も信じられないもの。朝起きたら、夢だった、なんてことになっていたりして、とか思ったり……」

 マヤはそういいながら、信じるとか信じないとか、そういうレベルを超えてしまった、信念とでもいうような、くっきりとした真澄への想いが、マヤの体の中を貫くのをはっきりと感じていた。

紫織にいわれたとおり、紫のバラですら紅天女のために利用する駒で、今の目の前にいる、自分をひたむきに愛してくれているように見える真澄も、もしかしたら、つかの間の幻なのかもしれない。
 
それでも構わない。それでも絶対に後悔などしない。

「でも。今のあなたが夢や幻であったとしても、私はずっとあなたを好きでいる。だってあなたは私にとって、世界で一人しかいない、かけがいのない人だから」

 マヤのその言葉をきいた瞬間、真澄のすべての動きがとまった。それからしばらくして、まるで痛みを吐き出すように、大きく胸を上下させ、ひとつ吐息をついた。そのあとに浮んだ微笑。それは、雨上がりの一粒の朝露のように、マヤの心の中にぽとん、と落ちてゆっくりとその波紋を広げていく。

「マヤ」
 
真澄は掠れた声でそう呟いたあと、マヤの頬を、ゆっくりと大きなその手のひらで包み込む。マヤの大好きな真澄の温もりが、静かに体に広がっていく。

「なに?」
「キス、してくれないか」

 いつもの、淡々とした口ぶり。けれどその瞳は物凄く雄弁に、マヤのキスを懇願して熱を帯びて潤み、苦しげに、せつなげに細められている。そんな真澄に引き込まれるように、求められるまま手を伸ばす。

彼の頬に触れてから、ゆっくりと指を滑らせ、唇のラインをなぞると、真澄の瞳は、夢うつつの境にいる人のように、ぼんやりと揺れ始めた。こんな無防備な真澄の表情など、いままで一度も見たこともなかった。自分のような演劇しか取り柄のないような女の子が、真澄ほどの男に、これほどの影響を与えることができるなんて。そう思うと、自分の体の奥底から激しく疼くような、ある衝動がわいてくる。

 なんていとおしい……。



 マヤはゆっくりと真澄の首を自分のほうへ引き寄せると、彼の唇に、自分のそれをそっと重ねあわせた。深く濃く、艶めいていく茶色の瞳をずっとみつめていたくて、目を逸らさぬまま、儀式のように何度も真澄の唇を吸い上げる。次第に熱を帯び始めた上唇を、何度きゅっと吸い上げただろう。いきなり、真澄が動きだした。マヤの項を、大きな手のひらをぎゅっと乱暴なくらいに押えつけ、マヤの小さな口腔に、ひどく強引に彼の舌を押し入れてきた。そのあまりの激しさに、反射的にマヤは目を閉じて、首を後ろにのけぞらせる。
 
それは、怖いほど執拗で、動物的なキスだった。

 舌がマヤのすべてを吸い上げようと、口の中をどこまでも這いまわり、唾液がしたたり落ちるのも厭わない。マヤの舌が、驚いて逃げようとしても、どこまで追ってきて、からめとられる。マヤは、息苦しさと陶酔が交じり合った嵐の中で、ただただ真澄に身を任せるしか術がない。しかし次第に、体の一番奥深くにある、官能の芯が溶け始め、それらが細胞を覚醒させていくように、肌全体が沸騰し、泡立ち始める。それらは序々に大きな感情のうねりとなり、はっきりとした意思を持って、マヤの中に立ち上がってくる。

いままでずっと別け隔てられていた唯一無二の人に、ようやくめぐりあえた狂おしいほどの喜び。はやく溶け合ってしまいたい、という激しい欲望。

その想いは、理性をはるかに超えた切実さをもって、マヤを突き動かしていく。無意識に自ら進んで舌をからめ、我知らず両手は、真澄をかき抱こうとする。けれどどうやっても、溶け合えない。苦しくなるほど、もどかしい。マヤのきつく閉じられた目尻に、涙が一粒浮かんだ。

 激しいキスが突然止んだ。マヤは息をきらしたまま、ぼんやりと目を開けると、真澄が苦しげな、切ないような瞳で、じっとマヤを見つめていた。それからゆっくりと、マヤの目尻に浮かんだ涙を舌ですくい取り、彼女をそっと抱きあげ、柵の上からおろした。

「だめだ。これ以上一緒にいたら、君を壊してしまいそうだ」

 まだ、マヤは体ががくがくしてうまくしゃべれないから、ただただ首を横にふることしかできない。

 ―――― チガウ。そうじゃない。もっと、もっとあなたが欲しいの。ずっとそばにいたいの。

そんなマヤを見て、彼女の気持ちなど先刻承知だとでもいいように、今度は柔らかくそっと抱きしめると、その小さな耳にキスしたまま、掠れた声を溶かし込んだ。

「絶対に君を手放さない。絶対に、だ」


                                 

 

 


画 / 双子魂管理人