「お疲れさま〜」
「お疲れ」

 黒沼チームの稽古場はいっときに比べると、ずいぶん雰囲気がよくなった。マヤの演技が格段に冴えてきたのが、他の役者たちの演技に好影響を与えているようで、黒沼が怒鳴る回数もがくん、と減ったのだ。しかし、今はひたすら沈黙しながらなにかを考えている様子の黒沼が、マヤをはじめとした他のメンバーたちも気になるところであった。

「前から演技力はすごいものがあるな、とは思っていたけれど、北島さん、最近、輪をかけていいよね」

 稽古終了後、キャリア積んだ年上の女優が、マヤに声をかけてきた。最初は主役であるマヤを、遠巻きにみていたほかのメンバーも、普段は素朴で、きさくな普通の女の子であるマヤに好感をもちはじめていた。

「ほんとですか? なんだか嬉しいです。そういってもらえると」
「ほんと、ほんと。特にね、阿古夜が一途に一真に恋焦がれている、乙女な部分。あれはもう、演技を通り越しちゃって、めちゃくちゃリアルだから、こっちまで、胸がときめいちゃうわね。北島さんの演技力のなせる技なんだろうとは思うんだけど、もしかして、今、ホントに熱愛中だとか?」

 ずばりと切り込んできた遠慮のないその口調に、ミネラルウォーターのはいったペットボトルに口をつけていたマヤは、思わず、ぶうっと吐き出して、げほげほ、とすごい勢いでむせた。

「ちょ、ちょっと北島さん、大丈夫?」
「だ、大丈夫。ああ、びっくりした。へんなところに水が入っちゃった」

 マヤはわたわたとタオルで口のまわりを拭いた。

「そんなに慌てちゃうところとか、怪しい。その相手って、桜小路さんでしょう?」

 マヤはぶんぶん首をふる。

「全然、そんなんじゃないですよ。ほんとに。今はただ、稽古するだけの日々で……」
「なーんか怪しいなあ。でも確かに桜小路さんとつきあっている、という雰囲気でもないようだし」

 噂好きな彼女の探るような目に、思わず苦笑いをする。

「だから、ホントになんにも怪しくないんですよ〜。毎日帰って寝るだけなんですから」

 マヤは小さなバックの中にはいっている携帯に目を落として、メールの着信があることを確認すると、にこやかに手をあげた。

「じゃあ、そろそろ失礼します。お疲れ様でした!」
「あら、逃げたわね。今度ちゃんと教えてもらうわよ」

 そんな声を背中に受けてマヤは苦笑しつつ、ロッカールームへと向かう。歩きながら携帯を開いてみると、つきかげの仲間からのメールの他に、真澄からのメールもあった。マヤは、はやる気持ちを抑え、「速水さん」と表示されたメールをすぐに開いてみる。

『マヤへ
 稽古は終わったか? 食事がまだなら、軽いものでもちゃんと食べること。役者は体が資本だということを忘れないように。いつも書いているが、君は芝居に夢中になると、他のことは全部どうでもよくなってしまうのだから、心配だ。』

 ここまで読んで、マヤは思わず吹きだす。

「速水さんっていっつも、書き出しは説教風なんだから」

『今朝もらったメールに添付されていた近所の子ネコの画像、俺も癒された。すごくかわいい。どこか君に似ているな。これから会議に入る。会議は一気に片をつけてやろうと思っているが、その後は会食が入っているから、深夜まで体は空かない。俺が家に帰る頃には、君は夢の中だろうな。残念だが、今日も電話はできない。いつも君のことを思っている。おやすみ』

「ふふ。あの速水さんが、すごくかわいい、だって。私に似てる、だって」

 マヤは一人でちょっと頬を赤らめ、ついつい浮かんでくる微笑を抑えることができない。
 こうしてメールをやりとりするようになってしばらくたつ。たいていマヤが、朝か、昼間の稽古の合間に、数通のメールを送り、夜に真澄がそれにまとめて返信してくるか、時間があえば電話がかかってくる、というパターンにおさまりつつあった。真澄は、並大抵ではない忙しさの中に身を置きながらも、律儀にメールを毎日返信してくれた。しかも、通り一遍の返事ではなく、マヤのメールのどんなくだらない内容でも、必ず一言は触れてくれる。 その、ちょっと硬質な、けれどありのままの真澄の愛情を感じさせる言葉たちに、 ドキドキさせられたり、胸をときめかされたりするのだからたまらない。 直接会っているわけでもないのに、昨日よりも今日、今日よりも明日と、 どんどん真澄が好きだと思う気持ちが、膨れあがっていく。けれど、そんな恋心とは裏腹に、 マヤの心の奥底で、いやな不安が時々いやな音をたてて、蠢いている事も感じていた。 けれどそれを見てみぬふりをし、ちょっと前までは絶対に手の届かなかったはずの恋に、のめりこんでいく。
 マヤはぱたん、と携帯を閉じると、まっすぐに更衣室に向かう。できるだけ早く返信したいと、ついつい早足になる。

 「おい、北島!」

 後ろから、ふいに呼び止められた。振り返ると、しかめっつらをした黒沼が、事務室から、にゅっと顔を出した。

「お客さんが待っているぞ。ちょっと来てくれ」
「え? お客さん、ですか?」

 マヤは全く見当もつかないまま、バックを肩にかけなおして事務室にはいっていく。すると事務室奥の、さびれた応接セットにすわっていた人が、ふっと顔をあげた。

「紫織さん……」

 マヤの足が思わず止まり、体は硬直したように、動かなくなった。そんなマヤとは対照的に紫織は優雅に立ち上がると、マヤに向かって軽く会釈をした。

「マヤさん、ごめんなさい。お稽古が終わった後で、お疲れかと思ったんですが、少しだけお時間をいただいてもよろしいかしら?」

 呆然と立ち尽くすマヤの肩に、黒沼がぽん、と手を置いた。

「ほら、なにぼけっと突っ立ってる。さっきからずっとあそこでお前のことを待っていたんだ。俺は向こうにいってるから、話してきなさい」

 言葉はそっけないだが、その口調にはどこかいたわりのようなものが混じっていた。マヤが思わず困ったように見上げると、黒沼は静かに頷いて、視線を紫織のほうへ向けた。

「あ、はい」

 マヤは蚊の鳴くような声でそう呟くと、ノロノロと黒いソファーにすわっている紫織のほうに歩みをすすめた。黒沼は紫織のほうへ歩いていくマヤを見つめていたが、ぱっと踵を返すと、事務室からでて、ドアをぱたりと閉めた。誰もいない事務室を通り抜け、マヤは紫織の前までいくとぺこりとおじぎをした。

「おまたせして、すいません」
「マヤさん、ごめんなさいね。急に訪ねてきてしまって。どうしてもほんの少し、お話がしたかったものだから」

 立ち尽くしているマヤにあわせて、紫織もソファからたちあがったままマヤを見つめている。その口調は柔らく、口元には微笑が浮かんでいるけれど、目は笑っていなかった。どこか緊張したような、張り詰めた空気が、二人の間に漂う。
 
 「あ、いえ、大丈夫です。あの、どうぞすわってください」

 マヤは、二人して立ちつくしていたことにようやく気がついて、あわてて紫織にすわるように促し、自分も腰を下ろした。紫織は頷くと、スカートの裾を、その細い指先で丁寧に押さえながら、音もなく静かにすわった。その所作の美しさに、マヤは思わず見とれる。間違いなくこの人は真澄と同じ上流の社会に属していて、彼の隣にいるのにふさわしい人なのだ、という考えが、マヤの中にすとん、と落ちてきた。その痛みは鈍痛を与えながら、胸を引き絞る。マヤは、紫織のV字形に品よく開いたワンピースの胸元からみえる、きらきらと光を反射させているダイヤモンドあたりに、うろうろと視線をさまよわせるしかない。

「今日マヤさんに伺いたかったのは、他でもない、真澄様…いえ、速水のことです」

 速水。そう呼び捨てにした紫織の言葉に、マヤは思わず顔をあげた。ようやく上げたマヤの視線を、紫織はぎゅっと捉える。もう逃げることは許さない、とでもいうように。

「最近、速水とお会いになりましたか?」

紫織の口調は、淡々と事実確認をしているような冷静さの中に、鋭さが秘められているのが感じられ、マヤの背中が一瞬震える。

「速水さんと、ですか?」
「ええ」

 戸惑ったような口調のマヤをじっと見つめて、静かに答えを待つ紫織に、マヤは思わず唾をごくり、と飲み込んだ。

「二週間前、くらい前だったと思うのですが、速水さんが、黒沼先生に何か書類を持ってこられたときに、この稽古場で会いましたが……」

 マヤは必死で言葉を探しながら、そう答えた。

「それ以来、会っていらっしゃらない?」

 紫織の追求するような、やや硬さを帯びた声から身を守るように、マヤは、真澄からもらったメールがはいっている携帯の入ったバックを、ぎゅっと抱きしめ、自身の胸の中に押し付けた。

「は…はい。会っていませんが……速水さん、何かあったのでしょうか?」

  その後、本当は一回会った。キスまでした。婚約を破棄するといってくれた。毎日メールを交換している。けれどもそんなことを、彼のフィアンセに口が裂けてもいえるわけがない。自分のついた嘘が、耳の中にこだまする。

「そうですか。いいえ、速水は、特にかわりませんわ。ただここ最近、特に忙しいようですけど。紅天女の試演も近いですし」
「そう…ですか」

 心臓がドキドキと音をたてているのが、紫織に聞こえるのではないかと不安になる。

「速水にとって、紅天女は特別の存在、ですわね。紅天女の話になると、目の色が変わるんですのよ。いつもそう。だから、あなたのことも、いつも気にかけているのね」
「え……」

 マヤは紫織の言葉に、一瞬言葉を失う。

「速水はずっとあなたに期待をかけていた。そうでしょう? まだあなたが演劇をはじめたばかりの頃から、あなたの才能を見出し、ずっとあなたを支援していた。紫のバラの人として」

 マヤはバックを握り締めていた手のひらの力が、抜けるのを感じた。あっという間にバックは下にすべり落ち、中身が床に散らばった。紫織はそんなマヤを鋭い視線を向けたが、すぐにかがんで、床に散らばったものを拾おうとした。

「だ、大丈夫です。すいません。自分で拾いますから」

 マヤはあわてて、テーブルの下にしゃがみこんで、中身をかき集める。

「マヤさん、これも」

 その声に顔をあげると、マヤのピンクの携帯を紫織がこちらに差し出している。真澄からのメールが入った携帯に、紫織の手が触れているのを見たとたん、夢のような時間がすべて幻のように消え去った感覚にとらわれた。震える手で携帯を受け取る。

「すいません……」
「驚かせてしまったのかしら? もしかして速水が紫のバラの人だったことをご存知なかった?」
 
 さきほどよりもワントーン高めの紫織の声に、ゆっくりと顔をあげると、きゅっと絞り込んだようなきつい印象まま、冷たい笑みを浮かべた紫織がいた。

「いえ、その……私…」

 もごもごと口ごもるマヤを、動転していると思ったのか、紫織はそのまま続ける。

「速水が私に話してくれました。あなたは稀有な才能の持ち主であり、将来の紅天女を演じる可能性がある女優さんだから、支援してきたのだと」
 
紫織の揺るぎのない口調に、マヤは衝撃をうけたまま、なんと答えていいものかわからない。真澄と自分をつなぐもの。その中心にあったのは「紫のバラ」であり、その世界を共有していたのは、二人だけだったはず。それなのに、どうして紫織がそこにまで踏み込んできたのか。呆然としているマヤを見据えて、紫織は尚も言葉を続ける。

「速水のお気に入りの女優さんであるあなたを、私も応援するのは当然のことですわ」
「お気に入り……」

 『お気に入り』という言葉にマヤはなんと反応していいかわからず、うっすらと微笑みさえ浮かべている紫織を、ただ見つめることしかできない。

「ただ、ひとつ。マヤさんにご理解いただきたいことがあるんです」

背筋を伸ばした紫織が、はりつめた口調できっぱりといった。

「速水の好意を勘違いなさらないでほしいのです。ひいては、それがあなたのためでもあるわ」
「私の……ため?」
「ええ。私の祖父や父もそうですが、会社を経営する人間は、時として倫理や法に抵触するぎりぎりのラインの、強引な手法を使わなければならないときがあります。たとえば、速水があなたのお母様のことに関っていた時のように」

マヤの顔は、白く青ざめ、指先は小刻みに震えだした。

「会社のため、欲しいものは、どうやってでも奪い取る。手段は選ばない。そうやって速水の父と速水がこの業界で一、二を争う会社にまでにしてきたことは、あなたもよくご存知なはずだわ。そして今、速水が一番欲しいもの。わかりますわよね?」
「紅天女……」

マヤがうわごとのように呟いたのを、紫織は静かに頷いた。

「そうです。あなたか姫川さん、どちらかが主演される幻の舞台。速水があなたに近づくのも、「紅天女」があるからだということをお忘れにならないで。あなたは女優として恵まれた才能をお持ちでいらっしゃるのだから、その才能が使い捨てにされないよう、ご自身で身を守られてくださいましね」

マヤのためといいながら、その口調は厳しく、明らかにマヤに対して、矢を放つような鋭さに満ちていた。ゆっくりと立ち上がった紫織は、座ったときと同じように優雅な仕草だったが、その表情は冷たく冴え、マヤを見下ろしていた。

「話はそれだけですわ。お疲れのところ、お時間をとらせてごめんなさいね、マヤさん。あなたの紅天女、楽しみにしています。それではごきげんよう」

紫織は軽く会釈をすると、マヤの返事も聞かずに踵を返し、あっという間にドアの向こうに消えた。マヤはあまりにも強烈な光を見てしまった後の人のように、ただただ残像を追うようにぼんやりとドアを見つめていた。紫織の放った一撃は、確実にマヤの急所を捉えていた。紫織と、マヤとの格の違い、そして一番触れられたくない、母親とのことまで、無遠慮に突きつけられたのだ。しかも、真澄が、紫のバラの人であることを紫織に話したという。もしそれが本当なら、今真澄がマヤに近づこうとしているのは、まさに「紅天女」のためだということになる。それでも、紫織と婚約破棄をする、といったあの夜の真澄には、騙そうとする気配など微塵もなかった。それどころか、あの真摯な表情に嘘はないと心から信じられた。そう思いながらも、マヤは帰る家を見失った幼子のように、ただメールや電話といった細い線だけでつながっている真澄からの愛情に、なんだか自信がなくなってくる。

「おい、北島。お前、大丈夫か」

その太い声に、はっと我にかえって顔をあげると、いつの間に入ってきたのか、黒沼がマヤの前に立っていた。

「黒沼先生…」

マヤはうつろな表情を見て、黒沼が難しい顔をしたままひとつため息をつくと、さきほどまで紫織がすわっていたところに、どかり、と腰を下ろした。

「お前も面倒な男に惚れちまったもんだな」
「え?」

 その言葉にマヤはびくりとして、ようやく焦点しっかりと黒沼に合わせる。

「お前が速水の若旦那に惚れているのは、なんとなくわかった。最近のお前の恋の演技が、ずいぶん迫真にせまってきたから、あいつとなにかあったな、とは思っていたが、あのお嬢さんが、お前を牽制しに乗り込んできたところをみると、若旦那のほうもお前に惚れていたんだな。それもなんとなく感じるものがあったが、どちらにしても、この一番大事なときに、面倒な修羅場を演出してくれたもんだ」

さばさばと、苦笑されながらそんなふうに言われてしまい、返す言葉もなくなる。黒沼の言葉は間違いなく第三者として、自分よりももっとクリアにこの状況を見ているのが感じられて、張り詰めていたものが緩み、思わず目が潤んでしまう。

「お前がめそめそしてどうするんだよ。あいつがどういう立場の男か、わかっていて惚れたんだろう? ちょっとあのお嬢にいわれたくらいでへこたれるくらいなら、桜小路にしとけ。あいつとなら、そんな気苦労、しなくて済むぞ」
「先生、そんな無責任なこと言わないでください」

黒沼のあっけらかんとした口ぶりに、マヤも思わず苦笑してしまう。ようやく浮かんだマヤの笑顔に、黒沼もふっと安堵したような表情を浮かべた。

「北島、お前、最近いい演技をするようになったよ。特に一真との恋の演技は、見違えるようによくなった。それも多分、速水の若旦那のおかげなんだろうな。ただ、これからお前が、あいつとの恋を貫こうとするなら、きっといろんな面倒が待ちうけているだろうよ。今日のお嬢さんの襲撃なんて、序の口だろう。あいつは若いが、とんでもなく重たい荷物を背中にしょっちまってるからな」

黒沼はそこでふっと口を閉じ、しっかりとマヤを見つめた。マヤも思わずぴん、と背筋が伸びる。

「だが北島、お前、本気なんだろう? 本気であいつのことを愛しているんだろう?」

 穏やかで力強い黒沼の声に導かれるように、マヤは黒沼を見つめる。その言葉はごく自然に、紫織の毒々しい言葉の呪縛を解いて、するりと本音を引き出してしまう。

「はい」

まっすぐな瞳でそう答えたマヤに、黒沼は頷き返す。

「それなら、お前も腹を括るしかないな。あいつとの恋で味わう苦しみも絶望も、狂おしいほどの喜びも、今のお前にとって、ムダになることは、何ひとつないだろう。お前は恋する女である前に、役者だ。しかも紅天女を演じることを許された、稀有な女優なんだからな。そこで感情に溺れ、崩れて使い物にならなくなったら、もう終りだ。紅天女はあきらめろ。それがいやなら、辛くても苦しくても、この恋で感じたすべてを、細胞のひとつひとつに染み込ませ、すべてを飲み込んでやれ。お前ならそれができるだろうし、それができた暁には、間違いなくお前の中に紅天女が降りてくる」
「紅天女……」

 マヤはどこか畏怖するように、呟いた。以前に全く同じことを千草に言われたことを思い出す。様々な人間の運命を変えてきた紅天女を演じる自分に、改めて背中が震えそうになる。そんなマヤの様子を見て、黒沼はぼりぼりと頭をかいた。

「まあ、ひでえハナシだってことはわかっているけどな。お前にとっては真剣な恋愛も、芝居の肥やしにしちまおうってんだから。だが、それができてこそ、一流の役者ってもんだぜ」
「黒沼先生…」

マヤがぼんやりとした表情で呟くと、黒沼はふっと微笑んだ。
 
「まあ、とにかく。俺たちの紅天女はお前のこの細い肩にかかっている、ってことだ。頼むぜ、北島」

 マヤの肩を、景気づけにと黒沼が思いっきりばしっと叩く。が、あまりの力の強さにマヤの体は後ろにつんのめってしまった。

「先生! 力が強すぎます!」
「あ、わりいわりい」

 黒沼のとぼけた様子に、思わずマヤも噴出してしまった時だった。ゆっくりと事務室のドアが開いた。

「マヤちゃん」

 桜小路が顔を覗かせた。

「もう帰るよね? 遅いし送っていくよ」
「おお、そうしてもらえ。暗い夜道を、お前がひょこひょこ一人で歩いているかと思うと、こっちまで落ち着かなくなる」

 二人にそういわれ、断る理由もなく、桜小路のバイクで送ってもらうことになった。駐輪場まで歩いていく途中、桜小路は一言も発しなかった。マヤも、その沈黙の中、紫織や黒沼の言葉を反芻しながら、自分はどうしたらいいのだろう、とぼんやりと物思いにふけっていた。

「はい、これヘルメット」

 その言葉にはっとして顔をあげると、桜小路がじっとマヤを見つめていた。

「ありがとう」
 
そういってヘルメットを受け取った後も、彼はじっとマヤを見つめたままだ。

「桜小路君?」
「ああ、ごめん。さ、乗って」

 桜小路のどこか陰のある微笑に、マヤは小首をかしげつつ、促されるままバイクの後ろにまたがった。桜小路の腰にそっと腕をまわすと、桜小路の体が一瞬揺れたような気がしたが、何事もなかったようにバイクはゆっくりと動き出した。街の景色が後ろに流れていくのをぼんやりと見つめながら、マヤはひたすら自分の思考の中で漂っていた。

「さ、ついたよ」

 はっと気がついたときには、いつのまにかマヤのアパートの前についていた。桜小路がエンジンを止めてくれたので、マヤはゆっくりと後部座席から降りると、ヘルメットを取った。

「ごめんね。わざわざ送ってもらっちゃって」

 マヤが申し訳なさそうにヘルメットを差し出すと、桜小路は穏やかに微笑んだ。

「いいんだよ。僕がしたくてしているんだから。マヤちゃんも遠慮しないで」
「ありがとう」

 桜小路は受け取ったヘルメットを抱え一瞬ふっと目を伏せ、足元に視線を落としてから、呟いた。

「ごめん」
「え? なにが?」

 桜小路はふっと顔をあげると、しっかりとマヤを見つめた。

「偶然聞いてしまったんだ。紫織さんが帰った後、君と黒沼先生が話いていたこと」
「え……」

 マヤが目を見開くと、桜小路はやや苦しげな表情で、見下ろしている。

「君が片思いで苦しんでいた人って、速水社長だったんだね。それに、速水社長も君を好きだったなんて……ビックリしたよ。一番想像もしていなかった事だったから」

 マヤはなんていっていいかわからず、ただただ困ったように桜小路を見つめるしかなかった。桜小路はふと、口元を緩めて、微かに微笑んだ。

「大丈夫。他の人に絶対言ったりしないから。でも」

 そういって、桜小路はきっぱりと続けた。

「マヤちゃんにこういうのは残酷かもしれないけれど、速水社長には、家同士で取り決めた婚約者がいる。ああいう結婚を取りやめようとするのは、並大抵なことではできないと思う。多分、マヤちゃんだって、相当大変な思いをするはずだよ。黒沼先生がいっていた通り、僕だったら、君をそんなふうに悲しませたりしないから」

 桜小路の目は真剣そのもので、マヤは思わずあわてて口を開く。

「桜小路君、あの、でも前にもいったとおり……」
「わかっているよ。これも僕の勝手な気持ちだから、君がなにか責任を感じたりすることじゃないからね。でもとりあえず僕の気持ちだけは伝えておきたくて」
「桜小路君……」

 マヤが悲しげな顔で桜小路を見つめていると、マヤの肩にぽん、と手を置いた。

「明日も稽古だ。今日はいろいろあって疲れたよね。ゆっくり休んで。おやすみ」

 桜小路はマヤのとまどいを振り切るように、さわやかな笑顔を向けると、そのままバイクで走り去っていった。バイクのエンジン音が聞こえなくなるまで、マヤはそこにぼんやりと立ちすくんでいた。

「マヤ」

 いきなり後ろから声をかけられ、飛びあがらんばかりに吃驚して、振り返った。マヤに後ろには、スーツ姿の真澄が、いつのまにか腕を組んで立っていた。

「は、速水さん! どうして? 今日は会食があって、夜中まで抜けられないって」
「その会食を途中で抜け出してきた。君のことが気になって」
「私のこと?」

 マヤが問い返すと、真澄がゆっくりとため息をついた。

「今日、君に紫織さんが会いに行った、と聞いてね」
「紫織さんから聞いたんですか?」
「いや、部下から聞いた」

 そういったきり真澄は黙り込んでしまった。マヤも今の桜小路からの告白を、真澄に聞かれたかもしれない、と思うとなんといっていいかわからない。二人の間に流れる沈黙は、お互い聞きたいことが沢山あるのに言えない、飲み込まれてしまった言葉たちの塊のようだった。そんな中で口火を切ったのは、真澄だった。

「疲れているところすまないが、ちょっとつきあってくれないか?」
「え? どこ…に?」
「わからない」
「わからないって、速水さん!」

 そういっている間にも、真澄はマヤの手を掴むと、車のほうへと歩いていく。彼が本気になれば、へし折ってしまうことも難しくなさそうなマヤの細い手首を、真澄はかなり強く握り締める。

「イタイ…」

 思わずもらしてしまったマヤの言葉に、真澄は強く掴みすぎている自分の手を見下ろし、すまない、とつぶやいてから力を抜いた。けれどマヤがそれを振り切ってしまうことができないくらいには、しっかりと拘束し続けた。