マヤが稽古を終えて、キッドスタジオを出たあとに空を見上げると、どんよりとした雲が垂れ込め、今にも雨が降りそうだった。

「いやだなあ、降るのかな」

 一人呟き、ロッカーに入れっぱなしになっている、置き傘を取りに行こうかどうか迷う。けれど、また戻るのも面倒だ。

「どうせ家に帰るだけだし、雨が降ってきたら、そのまま濡れちゃってもいいかな」

なんとか天気はもちそうだ、と判断してそのまま早足で、駅まで向かい電車に乗ったところで、ぽつりぽつりと雨のしずくが、窓に何筋も流れ始めた。

「降り出してきちゃった」

 電車から降りて、プラットフォームから上をみあげると、まだそれほどひどい降りにはなっていない。急いで改札から飛び出し走りだすと、やや大きくなった雨粒がマヤの頬をかすめてアスファルトに吸い込まれていった。

「ああ、もうちょっとなのに。神様、もう少し待って」

 マヤはそんなふうに一人呟いて、走り出した。ようやくアパートの手前まできた頃には、本降りになりそうだった。あの角を曲がれば、もうすぐ。まだそれほど濡れてない。早く、早く、とアパートまで走りぬけようとしていた、そのときだった。アパートの手前に、このあたりの雰囲気にはそぐわない、けれど見たことのある高級外車が止まっていた。

「あ」

 マヤは一言そうつぶやくと、雨に濡れるのも構わず棒立ちになる。マヤが立ち止まった瞬間、間髪いれずに車のドアが開いて、長身の男が、さっと飛び出してきた。一方でマヤは、呆気にとられたように、その姿をぼんやりと見つめていたら、ぎゅっと強い力で手を掴まれた。

「ほら、雨の中、なにぼんやりしている。こちらに来なさい」
「あ、はい」

 真澄にひっぱられるままについていくと、手慣れた様子でドアをあけ、すぐにマヤを助手席に押し込んだ。反対側の運転席に入ってきた真澄はドアをしめると、ふう、と一息ついてから、ようやくマヤに向きあった。あれから一週間。ずっとずっとマヤの心を占めていた人が、いきなり目の前にあわられ、緊張と高揚が一気に高まる。そんな状態のマヤを知ってか知らずか、真澄はぶっきらぼうにこういった。

「タオルは?」
「はい? タオル? えっと、持ってます。あれ? どこいったかな」

 手持ちの鞄をごそごそ探すけれど、確かにしまったはずのタオルが見当たらない。稽古のときはあったのに、と思うと余計あせってしまい、ただただ鞄の中をかき回しているマヤに、真澄がふっと苦笑した。

「あいにくハンカチしかもっていないんだが、ないよりマシだろう」

 そういって胸の内ポケットから、きちんとアイロンがかけられたハンカチを広げ、マヤの髪の毛の水滴を取るように押し当てたから、真澄の顔は見えなくなってしまった。けれど、真澄の温かい手のぬくもりと、ハンカチから香る淡い男性用の香水の香りに思わず、熱を帯びた、ため息をつきそうになって、あわてて飲み込む。

「寒くないか」

 真澄の声が、ハンカチを揺らして柔らかな風のようにマヤに届く。それは雨の湿度を含んで、優しくマヤの鼓膜をゆらした。

「いえ、全然、だいじょうぶ……です」

 マヤは思わず喉をならしそうになってしまい、言葉がうまくでてこない。現実と幻が交じり合ってしまったような感覚に、なんだか頭がおかしくなってきそうな気がして、とにかく思いついたままの言葉を唇にのせる。

「あの、速水さん」
「なんだ?」
「どうしてここに? この時間ならいつもならまだお仕事中、ですよね?」

 マヤがそういうと、髪の毛をふいてくれていた真澄の手が止まり、まるで舞台の幕が上がる時のようにハンカチが落ちて、ゆっくりとマヤの視界が広がった。見上げると、なぜだか悲しげにみえる真澄がマヤをじっと見つめていて、一気に心臓の音が、身体全体に反響するように響き始めた。ひとつ息を吐いてから、真澄がゆっくりと口を開いた。

「この前会ったとき、約束しただろう? 今度連絡するって。忘れたのか?」
「え?! 忘れるわけ、ないじゃないですか。しっかり覚えていますよ!」

 売り言葉に買い言葉というような、いつものマヤの勢いに、真澄は一瞬、呆気にとられたような表情になったが、すぐに何かが緩んだように吹き出したので、マヤははっと、口元を押さえた。

「す、すいません。あの、ちゃんと覚えていました。覚えていた、というよりこの一週間ずっと、あの時のことばかり考えていました。速水さんこそ、忘れちゃっているのかな、とか、あれは空耳だったのかな、って思って、ちょっと悲しくなったりもしたけれど……。でも、その…一方的に私が速水さんにいろいろ…いっちゃったりしたから、それも仕方ないかな、なんて思ったり。でも後で連絡する、って言ってくれただけでも、すごく嬉しかったんです。その言葉を励みに、稽古もがんばって、黒沼先生にも怒鳴られなくなったんですよ。もちろん、紅天女としてはまだまだですけどね」

 必死で紅天女の姿を追い求めながらも、ふいに襲ってくる真澄を想うせつなさが、時々指先に微かな痛みを走らせた。そのたびに、ぎゅっと手のひらを握り締め、必死に稽古に励んできたこの一週間。真澄はマヤの言葉すべてを受け止めるように、じっと見つめ続けている。
 
「すまなかった。連絡が遅くなって」
 
 やや間があったあと、ふいにまじめな声でそんなふうに言われてしまい、なんだか申し訳ないように感じて、首をぶんぶん横にふった。

「と、とんでもない。速水さんは凄く忙しいし、そんなのあたりまえです。電話でもよかったのに、わざわざ来てくださって、本当にありがとうございます」

 なんでも構わないと思った。こうして真澄と二人きりで話せるのならそれだけで十分なのだから。心からそう思ってぺこりとおじぎをした。

「俺が……」
「え?」

聞きなれない、真澄の少し上ずったような掠れた声に、思わず顔を上げた。いつもは、感情を押えた冷静さを湛えた瞳が、必死さやもどかしさを伴う情熱を帯びて、まっすぐにマヤを見つめていた。そんな真澄の様子に、照れや恥ずかしさなども忘れ、マヤも吸い込まれるように一心に見つめ返した。

「いつ、俺が紫のバラの人だと気づいた?」
「あの、狼少女で賞をとったときにいただいたカードを見て。初日にしか使っていなかった青いスカーフのことが書いてあったから、ああ、あなただったんだって」

 真澄はマヤの言葉をきくと、大きくため息をついて、苦笑した。

「俺としたことが、ずいぶん脇が甘かったな」

 そういって、照れたような笑みを浮かべた真澄を、マヤは何度も目をしばたかせながら見つめる。

「君の重ねられた手の感触、そして俺のことを紫のバラの人、と呼んでくれたこと。みんな、自分が作り出した幻じゃないかと疑っていた。それを君に確かめたら最後、そんなことなど知らない、覚えてない、と言われるのが…恐くて、今まで連絡できずにいた」
「は、速水さん?」

 真澄の言葉に、マヤは心底びっくりして思わず大きく目を見開いた。

「けれど君は、あのときのことをちゃんと覚えていて、俺をこうして見つめていてくれる。ああ、あれは幻じゃなかったんだって今、初めて実感した」

 そういって、少年のようなはにかんだ笑顔を浮かべる真澄に、マヤはなんと答えていいのか全くわからず、ぽかん、と彼を見つめることしかできない。

「俺は、……ずっと君を愛してきた。多分、出会った頃からずっと」

 マヤのこれまでの波乱万丈な人生の中でも、これほど驚いた瞬間はなかったかもしれない。なぜなら声を出そうとしても、出ないなんてことは、いままで一度もなかったのだから。なにかしゃべろうとするのに、喉にぽっかりと穴があいてしまい、そこから零れ落ちてしまったように言葉がでない。

「そこまで驚いた顔をしなくてもいいだろう?」

 真澄が苦笑しながら、マヤの頭をぽん、と軽く叩いた。その瞬間、どこか宙に舞っていた声が、ふいに着地したように、ようやく言葉が落ちてきた。

「嘘。あんな綺麗で完璧な婚約者がいて、婚約披露パーティでだって、とても幸せそうで…」
「君にはずっと、嫌われ憎まれ続けて、永遠に俺の気持ちが通じることなどないだろう、と思っていた。だから君を諦めるために、親父にすすめられるまま、見合いをして婚約したんだ」

 淡々とそう説明する真澄の告白が、幸せなのか、苦しいのか、マヤ本人にもよくわからなくなるほど、ただただ混乱しているのを見て、真澄は、少し困ったような顔をして、ゆっくりと手のひらをマヤのほうへと差し出す。

 「これでも、信じられないか?」

 マヤの目の前で、手のひらを広げてみせた。マヤがぼんやりとそこへ視線を落とすと、指の長い、しなやかで大きな手のひらが微かに震えている。マヤはびっくりして真澄の顔を見上げた。

「仕事上、たいていのことなら自分の感情をコントロールできる自信はある。けれど、君に……自分の気持ちを伝えようとしただけで、この有様だ」
「速水……さん」

 そういってから、真澄はふっと自嘲気味に微笑んだ。

「俺は、君が思っているほど、大人でも、冷静でもない。特にマヤ、君のことになると俺は、冷静さなんか、いつもどこかへ吹き飛んでしまうんだ」

 マヤは大きな瞳を、見開いたまま、真澄をひたすら見つめた。

「嘘よ……こんなの現実な訳が……」
「まだ嘘だと疑うのか?」

 苦笑しながら真澄はゆっくりと、とても慎重に、壊れ物でも扱うようにマヤを抱き寄せ呟いた。

「神に誓ってもいい。ひたむきに演劇にかける君の情熱に惹かれ、紫の影として見守っているうちに、いつしか君自身を愛してしまっていた。本当だ」

 ぴたりと重なった体から直接響いてくる低く優しい声と、早鐘のように打ち続けている彼の心臓の音が、波動のように、マヤの中にも打ち響いてきて、しだいにどちらのものかわからないくらいに連動していく。マヤはその鼓動を聞いているうちに、自分の中にあった、疑いやら疑問などがすとんとどこかに落ちていき、これは現実なのだ、という実感がわいてくるのを感じた。真澄の背中に必死で手をまわして抱きしめると、真澄もマヤのことをさらに強く抱きしめてくれる。その感触に堪えきれず、彼の胸に顔をうずめ、しゃくりあげはじめる。

「速水さん……速水さん……速水さん!」

 彼の存在が本物かどうか確かめるように、マヤは何度も何度も真澄の名を呼び、そのたびに真澄は優しくマヤの背中ととんとん、と叩いて応えた。真澄に伝えたいことは山ほどあるのに、しゃくりあげてしまい、なかなか言葉がでてこない。ずっとずっと恋こがれていた真澄の腕の中にいる。ずっとこらえにこらえていた、真澄への恋心も、とめどなくマヤの頬ぬらす涙と一緒にあふれ出て、どうやってもとまらなくなる。

どれくらいそうしていたのだろうか。ようやく嗚咽が落ち着いてきたので、顔をあげたとき。目の前の真澄のシャツとネクタイがぐっしょりとぬれてしまったことに気づいて、はっとする。

「は、速水さん、すいません」

 おずおずとそういって泣きはらした顔をあげたマヤを、真澄がそっと覗きこむ。

「ネクタイとシャツ、涙でぐしゃぐしゃにしてしまいました」

 そういうと、真澄は自分の胸のあたりを見たあと、難しい顔をした。

「困ったな。このままだと社には戻れない」
「そ、そうですよね、やっぱり。どうしよう」
 
 また泣き出しそうになったマヤをみて、すかさず真澄が耳元で囁いた。

「じゃあ、責任をとって今夜一晩、俺と一緒にいてもらおうかな」
「え!」

 ぎくりと硬直したマヤをみて、真澄が大笑いをした。

「さすがの俺でも、今日は仕事をしに、社に戻る気分にはなれないよ」

マヤが泣きはらした顔のまま、今度はすぐにぷぅと膨れてみせた。

「どうして速水さんは、こんなときまで私をからかうんですか! ひどいですよ。本気で心配したのに」
「すまない。条件反射でつい、からかいたくなってしまうんだ」

 真澄はくすくす笑いが止まらないまま、ゆっくりとマヤを抱きしめた。

「それに。君とずっと一緒にいたい、という気持ちは嘘じゃない」
「え……」

 マヤがぱっと顔をあげると、目を細めて、さきほどの笑いが残っている優しい表情で、じっと自分を見つめている真澄の瞳とぶつかる。

「けれど、今の俺の立場じゃ、そんなことはできないし、許されることじゃない。だから、マヤ」
「はい」

 マヤはゆっくりと頷いて、真澄がこれから伝えようとしていることを、一言でも聞き漏らさないようにと、一心にその口もとを見つめた。

「俺に時間をくれないか? しばらくは、こうやって2人で会ったりすることもできなくなるかもしれない。けれどいつか、君と一緒にいても、誰にも文句を言われないようにする。いや、してみせる」

静かな口調ながら、強い意志が滲むその言葉にマヤはひゅっ、と息を呑んだ。

「速水さん…それって、もしかして…」
「紫織さんとの婚約を解消する」

 一流ホテルの一番大きなバンケットルームを借り切った、豪華な婚約披露パーティを思い出す。あのときは、ショックが大きくて、まわりのことなどよくわからなかったけれど、経済界の重鎮たちをはじめとした、さまざまな顔ぶれの招待客がいたはずだ。そしてなによりも、真澄の横で、幸せに輝いていた鷹通グループ会長の孫娘、紫織の姿は、今でもありありと思い出せる。難しいことはよくわからないマヤですら、あの婚約を破棄することが、どんなに大変なことかは察せられた。嬉しさがこみあげてくるのと同時に、真澄の人生の歯車を狂わせはじめてしまったのではないか、という現実的な不安が入り混じり、思わず彼の腕を強く握り締めた。

「そ、そんなことしたら速水さん、大変なことになってしまうんじゃないですか?」

 マヤが見上げると、真澄はすっと瞳を細めて、マヤを静かに見つめ返した。

「君は、俺がこのまま結婚したほうがいいのか?」

 やや悲しげに翳ったように見えた瞳に、胸がきゅっと締め付けられて、必死に首を横に振った。

「そんなこと、あるわけない。結婚なんてして欲しくない。けれどもし、婚約破棄してしまったら、速水さんの立場だと、すごく困ったことになってしまうんじゃないか心配で…。私のせいで、速水さんになにかあったら、私……」

 真澄は首を振った。その仕草はとても静かなものなのに、既に彼の中ではもうすべてを決めているような、そんな揺ぎ無さがあった。

「大丈夫。君は俺の心配はしなくていい。今はただ、紅天女の試演のことだけを考えろ。君はひたすら、紅天女に集中するんだ。できるな?」

 その言葉は、さきほどまではしっとりと含まれていた甘さは消え、どちらかといえば厳しい、けれどマヤを鼓舞するような力強さがあった。それは昔から馴染んできた真澄の言い方で、いつだってマヤの情熱の原動力になってきたのだ。マヤはその言葉に、反射的に頷く。そんなマヤを見て、真澄は微笑む。とても優しく、穏やかに。

「いい子だ」

 いつでもそうやって自分を子供扱いにする真澄の言葉に、文句のひとつでも言おうと顔をあげると、真澄がそっとマヤの額にキスを落としたから、二の句を継げなくなってしまった。

「さあ、もう十一時だ。君も明日は朝から稽古だろう? 早く帰って寝なさい」
「もう……速水さんてば、すぐ私を子供扱いする」

 ようやく口を開いて、もごもごと文句をいってみるけれど、真澄は全く気にとめる様子もなく、いたずらっぽい笑みを浮かべている。

「そうでも言わないと、大人の扱いをしたくなるだろう?」
「へ?」

 すっとマヤの項に大きな手のひらを滑り込ませたかと思うと、顔を上にあげさせ、鮮やかな手際で、マヤの唇を奪った。

「こうしたくなってしまうから、今はまだ、子供扱いしていたほうがいいんだ」

 口をぱくぱく言わせて、真っ赤な顔をしているマヤに苦笑しながら、真澄は内ポケットから名刺を取り出し、さらさらと余白に何かを書いて差し出した。

「俺のプライベートの携帯番号と、メルアドだ。電話をしてくれても、出れないことがあるかもしれないが、メールなら遅くなっても必ず返信できるから」

 マヤは手渡された、小さな白い紙に目を落とす。その堅くて上質な紙の中央には

『大都芸能株式会社 代表取締役社長 速水真澄』

と印刷してあり、そのうえに、見慣れた紫のバラの人の筆跡で、メールアドレスと携帯の番号が書き記されていた。その筆跡を、そっと指でなぞってから、真澄の役職にぼんやりと視線を落とす。

「速水さんて、やっぱり大都の社長さん、なんですよね」

 マヤがさきほどのキスの余韻を唇の上に感じたまま、ぼんやりとそんなことをいうと、真澄は吹き出した。

「そんなこと、前から知っていただろう?」
「そうなんですけど」

 やっぱりまだぴんとこない。こんな人に自分が想われているなんて。

「ちゃんとメール、打てるのか? 君からメールをもらえないと、俺は返信しようがない」

 真澄がぼおっとしているマヤにからかうようにそういうと、マヤはがばっと顔をあげる。

「ナニをおっしゃいます! 速水さんより数倍早く打てますよ! 多分…だけど」

 語尾が小さくなったマヤに、真澄は笑う。

「じゃあ楽しみにしているよ」

 真澄の手がゆっくりと頬に触れる。まるでマヤの頬を包むためにあるようなその手で、そうされると、マヤの瞳は自然に、猫のように細められてしまう。ああ、もういってしまうのか、というせつなさが、マヤを襲う。

「メールします。もしかしたら一日に何回もしちゃうかも。あ、でも速水さん忙しかったら、無理して返信しなくてもですからね」
「ああ、ありがとう」

 そういうとゆっくりとマヤの頬から手が離れて、真澄のあたたかさが遠ざかっていく。その空虚さに耐えるように、手のひらを握り締めていると、いつの間にか真澄は外にでていて、助手席のドアを開けてくれた。外の雨は小降りになっていた。

「稽古、がんばるんだぞ」
「はい」
「行きなさい」

 マヤはまたしばらく会えなくなる寂しさに耐えかねて、アパートまでの短い距離の中で、何度も何度も真澄を振り返った。そのたびに真澄は手を振ってくれた。ドアの手前でもう一度振り返って、手を振ってから、ようやくアパートの中にはいる。しばらくすると、車が走り去る音がして、大きく息をついた。

「なんだか夢みたい」

 マヤは思わず声にだして呟いた。けれど夢ではない証拠に、手の中には、白い名刺がしっかりとある。さきほどキスされた唇を、ゆっくりと人差し指でなぞる。まだ真澄の感触を残っている。そう思ったら、自分でもどうしていいかわからないほど、甘酸っぱい、幸せな感覚が立ち上がってきて、いてもたってもいられなくなってきた。

「そうだ。さっそくメールをしてみよう」

 マヤは猛烈なスピードで、二階の自分の部屋へと急いだ。