「真澄様、どうされましたか?」

 紫織は、ナイフとフォークをゆっくりと皿のふちに置くと、ためらいがちに真澄に問いかけた。フランス料理のフルコースは、もうメインにまでたどり着いたというのに、真澄はどこか遠くを見つめたままだ。たまに、こんな表情を浮かべていることはあったけれど、自分と会っている間中ずっと、こんなふうでいる真澄は初めてだった。

「え? なにかおっしゃいましたか?」

 ようやく真澄は目の前にいる紫織を認めたように、はっとしたような様子のあとに、微かに微笑んだ。けれど、それはどこかぎこちなく、紫織の不安をかきたてるだけだった。

「今日は、どこかぼんやりされていらっしゃるよう。お仕事、お忙しかったのですか? ごめんなさい。無理にお時間をとらせてしまって」
「そんなふうに見えましたか? いつものことなので気になさらないでください。すいません、あなたを退屈させてしまいましたね」

 そういって、真澄はゆっくりと牛ヒレ肉にナイフを入れた。けれど紫織の心の中で、うずくような、不安の火種はいつまでの残ったままだ。仕立てのいいスーツを見事に着こなし、場慣れした様子で、自分を優しくエスコートしてくれるこのハンサムな男は、ほとんど完璧な婚約者といっていいだろう。唯一、彼の心が、手に届かない場所にあること以外は。あの、小さな女優を支え続けてきた「紫のバラの人」が、真澄であると知って、いいしれないショックをうけた。あそこまでの援助を長年にわたってし続けることは、生半可な気持ちではできない。そういえば真澄があの女優を見つめる目は、そのいじわるな口調とは裏腹に、いつもどこかあたたかい愛情に満ちていたような気がする。

「私は、退屈なんて思ったことありませんわ。真澄様とご一緒している時はいつも」

 紫織は思い切って、そんなことを口にしてみる。それは、真澄と婚約する前では到底想像もしていなかった、自分の中に眠っていた積極性であり、こうして愛情を伝える言葉を直接口にだしてみることは、思ったよりずっとたやすかった。けれど、そんな自分の言葉を喜ぶでもなく、一瞬苦しげに口を引き結ぶような表情をする真澄に、もっと、こういう言葉を投げかけてやりたくなるような、意地悪な気分が伴うことなども想像できなかった、と紫織は悲しくなった。

「……私はこういう人間なので、そういっていただけると、有難いですね」

 真澄は、引き締めかけた口もとを和らげると、諦めた人のような静かな微笑みを浮かべた。そんな彼を見つめながら、紫織は近くにいるのに、ほんとうの真澄は、はるか、遠くにいて、触れることができない、とひしひしと感じていた。お見合いで出会ったにせよ、こんなにも感情を傾けて好きになり、結婚することになった。それはとても幸せであるはずなのに、将来の二人のイメージが全くわいてこない。紫織はゆっくりとこめかみを押さえた。血流が脈打ち、頭が重くなってくる。

「紫織さん、どうしましたか? 具合が悪いのですか?」

 紫織はゆっくりと顔をあげて、真澄の顔を見つめた。自分の具合が悪くなるとき、この人は本当に心配そうにしてくれる。それは愛情というよりも、彼のもつ、気質のせいかもしれなかったけれど、それでも紫織には、それが愛情の印だと思いこみたかった。

「ごめんなさい。ちょっと気分が……」

 紫織は、ゆっくりとそういうと、微かに目を伏せた。

「でも大丈夫。ここでこうしてゆっくりしていれば、落ち着きます」
「でも、今日はお戻りになったほうがいいのではありませんか?」

 そういった真澄の顔を見つめた。本当に心配そうな真澄に、思わず微笑む。

「まだ、ディナーが終わっていませんわ。それに、せっかく真澄様が、お忙しい中、時間を空けてくださったのに」
「紫織さんの体のほうが大事でしょう。ご自宅まで送っていきますよ」

 そういうと、真澄は給仕を呼んですぐに支払いを済ますと、ゆっくりと紫織にむかって手を差し出した。紫織は、大胆さも繊細さも同居しているような、その大きな手を見つめてから、ためらいがちに握り締めると、真澄も握り返してくれた。真澄の腕に紫織のそれをからめ、個室の外にでて、店の中央を通って出口に向かう。フロアではかなりの人数の客が食事をしていたが、皆、この美しいカップルに目が釘付けになった。
 ほお、というため息の気配が、紫織の耳を掠め、胸を高鳴らせた。真澄と一緒にこういう場所にいると、よくあることだった。この若さでは考えられない地位につき、采配をふるっているゆえに身につけた威厳と、切れ味するどいクールさをまとった、長身の美形である彼といると、紫織が一人でいるときよりもずっと多くの人の目をひいた。そして、そんな彼にふさわしいパートナーとして、自分も感嘆を含んだ視線で見られていることを感じて、紫織はとても誇らしくなった。不安は少し後退し、真澄と自分は、出会うべくしてであったのではないか、という安心感にさえ包まれ、思わず真澄の腕を強く握り締めた。

 真澄の運転する車に乗ると、道路が空いていたこともあり、レストランのあった銀座から、屋敷まではあっという間についてしまった。紫織が時計を確認すると、まだ八時まえだった。気分はもうだいぶよくなっていたので、真澄との貴重な時間を、無駄にしてしまったという後悔の念が、紫織の胸によぎる。

「真澄様、ありがとうございました。もしよろしければ、お茶でも召し上がっていかれませんか?」

 シートベルトをはずし、ドアに手をかけようとしていた、真澄の動きが止まり、ゆっくりと紫織のほうへ振り返った。

「いえ、やはり仕事が気になるので、社に戻ります。それより、紫織さんはお体を大事にしてください。五月といっても、こんな天気の日は冷えます。家でゆっくりお休みください」

 目を細めて真澄が見上げた先には、どんよりとした雲に覆われた闇ばかりの空が広がり、今にも雨が落ちてきそうだった。

「そうですか…。お気遣いありがとうございます」

 自分を気遣うような言葉であっても、早くここから去っていきたいと思っている真澄の気持ちが伝わってくるようで、紫織のさきほどまでの浮き立ったような気持ちは、ゆっくりとしぼんでいく。かわりに、心をおおってくるのは、二人の上でも垂れ込めているような、どんよりとした雲だった。紫織が一つ、真澄には聞こえないよう、細心の注意を払って、ため息をついたそのときだった。

「紫織さん」

 いつもの丁寧なだけの口調とは違う、もっと硬くて、真剣な声にはっとして、顔をあげた。そこには、きゅっ、と口元を引き締め、紫織をみつめている真澄と目が合い、思わず息を止めた。真澄がなにかよからぬ事を言い出そうとしているような予感が掠め、我知らず口を開いていた。

「どう、されたのですか? そんな恐い顔をされて」

 先手を打つように、さもたいしたことでもないことなのでしょう、というように、鷹揚な笑顔さえ浮かべてみせると、真澄は言葉を飲み込んだ。病弱で幼少時から大人たちに囲まれ、彼らの複雑な人間関係を傍から見つめて育った紫織は、そういった相手の気をそらすような反射神経がいつの間にか身についていた。

「いえ、なんでもありません」

 真澄はすぐに車の外にでて反対側にまわると、紫織のドアを開けた。
 見上げた真澄の顔は、どこか苦悩が漂っていた。それでもその瞳は、上の空ではなく、じっと紫織を見つめていた。紫織は微かな痛みを感じながらも、この人とは絶対に離れたくない、そう切に感じた。欲求を感じる前に、ほしいものはすべて与えられ、蝶よ花よ、と育てられた紫織が、はじめて、心の奥底から痛切に湧き上がってきた感情が、真澄への愛情だった。
紫織は微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと手を差し出すと、真澄がそっと掴んで、立ち上がるのを助けてくれた。

「送ってくださってありがとうございました。また、折をみて連絡いたしますわ。結婚式のことで、真澄様と打ち合わせしたいこともありますし」

 紫織は鷹宮の娘として、真澄の婚約者として、悠然としたほほえみを保ちながら彼を見つめた。婚約者同士なのにずっと敬語を使い、まるで取引先との接待のようなデートをしている自分たちが、不自然なのは間違いない。それでも。速水真澄が、速水真澄として生きていくには、彼は自分と結婚するしかないのだ。もし仮に真澄があの女優を愛しているとしても。

「ごきげんよう、真澄様」

 少し残酷な気持ちをこめて挨拶をした紫織に、真澄は軽く頷いた。

「どうかお大事にしてください」

 紫織はしばらく真澄の顔を見つめていたが、ふっとなにか糸が切れたように俯くと、ゆっくりと真澄の手を離し、そのまま振り返らず、屋敷の通用門をくぐった。門を後ろ手でしめたとたん、真澄への愛情と、不信が入り混じった大きな重石のようなものが、胸をぐっと塞いできて、思わず大きなため息をもらした。