一年後。

五菱銀行の応接室で、真澄は、頭取である佐藤と向かい合っていた。

「大都へのおおまかな融資案はまとまったね。これで来年早々には、君は持ち株会社、大都ホールディングスのCEOに就任、か。」

 佐藤が真澄の押した印鑑を確認しながら、頷いた。

「佐藤頭取のご尽力のおかげです。本当にありがとうございました」

真澄は、丁寧に頭をさげた。

「君はよくがんばったよ。今でこそマスコミは好意的になったが、一年前に君が鷹通にTOBをしかけたときは、仲間の家に強盗が押し入った、とでもいいたげなバッシングの嵐だったからね。あんな渦中でも君は、冷静さを失わず、鷹通のマスメディア部門を掌握したあとの詳細なコンセプトを、示し続けた。その内容の的確さもさることながら、君の真摯な態度にも感銘をうけたね。いや、いくら昔なじみだからといって、それだけで肩入れしたわけではないよ。多角的に分析、検討した結果、当行の所有する中央ラジオ社株を、大都に譲ることが最善の道だ、と判断しただけだから」

佐藤はソファにゆっくりと体を沈めて微笑んだ。

鷹通のメインバンクである五菱銀行が、所有する中央ラジオ社の株を大都グループに譲渡することがきまったのが、TOB期日の前日。見事にTOBを成功させた真澄は、世間をあっといわせた。

この前代未聞の買収の成功には、五菱銀行の史上最年少で、頭取に上りつめた佐藤の存在が大きかった。多くの修羅場を、その洞察力と頭の回転の速さ、そして思いきりのいい度胸で乗り切ってきたといわれている佐藤。彼が五菱銀行の頭取になってから、銀行業界では初の試みを連発、保守的な業界の枠組みを打ち破り、革新的なことに意欲的に取り組んでいた。TOBを成功させるかは、時代の申し子のような佐藤をどう説得できるかが、勝敗の鍵だと、最初から真澄は睨んでいた。まさか鷹通のメインバンクが、という世間の常識の裏をかいたこの勝利は、五菱の頭取が佐藤でなければ、ありえなかった。

「佐藤頭取がいらっしゃらなければ、今ごろ私は路頭に迷っていたでしょう」
「まさか。君ならあっという間にヘッドハンティングされているさ」

世辞などいわない佐藤は真顔でそういって、組んだ指を、膝の上においた。

「鷹通グループはメディア部門も含めて、あのままでは、未来はない、と僕もずっと考えていたからね。抜本的な改革は必要不可欠だったのに、鷹宮天皇の相変わらずの独裁圧力が強くて、まわりはすべてイエスマンばかり。そこへ、孫娘の婚約者が、いきなり中央ラジオ社にTOBを仕掛けてきたんだから、鷹宮翁にとっては晴天の霹靂だったろうね。君が、前代未聞の買収劇を成功させ、すぐに鷹通のメディアグループを束ねるために大都グループの持ち株会社化に着手したのに対して、鷹通は心臓部を大都に買収され、それ以外のグループ企業は求心力を失ってしまった。鷹宮翁もその責任をとってとうとう引退に追い込まれたし、鷹通もこれで、大きく変わるだろう」

真澄は、すっと視線を落とした。

人生をかけた賭けに、確かに真澄は勝った。けれど、とても勝利の美酒に酔う気分にはならなかった。買収した中央テレビやラジオの社員の大きな不信感を、払拭しようと心を砕き、すこしずつ信頼を得始めている今、過去に大都の利益のためにと、踏みつけてきた人間たちについても、考えずにはいられなかった。かつて、真澄はかなりの数の会社をのっとり、多くの恨みを買ったりもしたが、弱肉強食のこの世の中において、弱いものが、強いものの餌食になるのは、自然の摂理だと、力で押さえつけ、ねじ伏せてきた。
しかし、のっとられた側の人間たちの日々の生活、家族との営みといったものも、平気で踏みにじってきたのだ、ということに、はっきりと気づかされた。その重さはダイレクトに真澄の心の奥底まで揺るがし、しっかりと地に足をつけていなければ、その罪深さゆえに、ブラックホールのようなその深淵に、吸い込まれそうだった。
けれどそんな罪の意識も、課せられた十字架としてすべて背負い、正面から向き合っていくしかない、と真澄は決意していた。

「真澄君?」

佐藤の声に、真澄ははっとして顔をあげた。

「どうした?」
「申し訳ありません。ちょっと考え事をしてしまって」

 やや表情を翳らせた真澄に佐藤は、銀行家らしい落ち着いた様子で話した。

「鷹通グループは、遅かれ早かれ、こうなる運命だったと私は見ているよ。君がやらなければ、中国系のファンドなどにやられていたかもしれない」
「そうかもしれません。それでも今、自分の責任の重さを痛感しております」

そういって苦笑する真澄の言葉に、佐藤は目を細めた。

「君は変わったな」

佐藤は、穏やかに微笑みながらいった。

「こういっては失礼だが、以前の君は、自分が勝つために踏みつけてきた人間など、省みることなどなかったように見えた。けれど今、君は人の痛みを感じ、それを深く胸に刻んでいるようにみえる。それは経営者としてとても大事な資質だよ。社会は、金だけで動いているのではない。基本は人間ありき、だからね。だからといって、彼らの痛みを感じすぎても経営者としてはやっていけない。人の痛みや意見を真摯に受け止めたうえで、ぶれずにまっすぐ、自分を信じて、生き抜いていくタフさ、そして孤独にも耐えうる強さが必要だと思っている。僕自身、いつも肝に命じていることなんだけどね」

佐藤の、五十代とは思えない精悍さと、老成された落ち着きを同居させているその瞳。その強く光る瞳を、真澄も一歩もひけを取らずに、見つめかえす。

「ええ。おっしゃるとおりだと思います。もがいても這ってでも、私も前に進むしか道はありません」

そういって、真澄が静かに微笑むと、佐藤も力強く頷いた。

「いい瞳をしているよ。君はまだまだ若い。これからが楽しみだな」

そういって、佐藤はふわりと微笑んだ。

「そうそう。君の元婚約者の紫織さん。確かフランスに渡って、大学にはいられたとか」
「ええ。フランスの大学に美術史を学ぶために留学されたのですが、そこで知り合ったフランス人研究者と来年にも、式をあげる予定だそうです」
「ほお」

真澄は紫織と最後にあったときのことを、静かに振り返った。



それはXシアターで行われた、黒沼チームの紅天女の試演が終わった時だった。マヤの紅天女に、魂をまるごと、ごっそりともっていかれるほど圧倒された真澄は、すぐあとに佐藤との会談をいれていたにもかかわらず、体がまるでいうことをきかず、ただただ目を見開いたまま座席にすわり続けていた。幕が下りても、あまりにも余韻が大きすぎて、意識が勝手に紅天女の世界をさまよってしまったのだ。目の前の人影に気づくのもかなり遅れて、ようやく像を結んだとき、その人が紫織だと気がついた。

『紫織、さん』

紫織は目を真っ赤に泣き腫らしていたけれど、ぼんやりしている真澄に、ふっと微笑んだ。その笑みは、すべての汚濁を流しつくしたような、清らかな笑顔だった。

『マヤさんの紅天女、すごかったですわね』
『ええ…』

 ふたりはそこで、じっとお互いを見た。元婚約者としてではなく、同じ感動を共有したもの同士として。

『衝撃的、でしたわ。マヤさんの演じた阿古夜の、愛らしさ、せつなさ、そしてひたむきに恋をすることによって得た、輝くような美しさ。紅天女として一真の刃を受けたときの、哀しみ、そして神々しさにあふれた表情。けれどなによりも印象的だったのは、固執するのでも押し付けるのでもなく、愛する人へのどこまでも深い海のような母性、包み込むような愛が、溢れていて……』

そのあと、紫織が言葉を探しているように、一瞬に黙った。

『マヤさんの、あなたへの愛をみるようでしたわ』

真澄はびっくりしたように、紫織の顔を見つめた。紫織が、わずかに残された期待を隠しながらも、それを温め続けていることが感じられる口調で、静かに尋ねた。

『あなたは、私からは株を買うつもりはないのでしょう? たとえご自身がどんなことになろうとも』

数秒の沈黙の後、真澄は静かに頷いた。

『ええ、紫織さん。申し訳ありません』
『謝らないでください』

紫織は、すっと視線を一瞬下に落としたが、すぐに、顔をあげて静かに微笑んだ。真澄の答えなど、先刻承知だったのだというふうに。

『お見合いで、初めてお会いしたときからずっと、あなたをお慕い申し上げていました。けれどあなたはマヤさんを愛していらした。真澄様の心が、どこか別にあることは、はじめからどこかで感じていました。いつもあなたの瞳は、どこか遠くを見つめていたから。けれども結婚さえすれば、きっと私を見てくれる日がくる、そう信じていました。それが、あなたにとっても私にとっても最善の道だと信じていたから。けれどそれが、逆にあなたを苦しめていたのかもしれませんね。私にとって愛だと思っていたものは、あなたにとって重荷でしかなかった』

紫織は真澄を責めるような口調ではなく、どこか遠くを見つめるようにして、呟いた。

『自分のすべてを捧げても、お互いを思い続ける。そんなマヤさんとあなたの姿を、 あの紅天女の中でもはっきり見たような気がしました。私も、頼り、依存するだけではなく、私の足でしっかりたって、自分の人生を生きたい。そうして、愛する人を支え、包み込んであげたい。そう切実に感じました。多分、あなたと結婚していたら、そんなふうにはできないでしょう。鷹宮の家で大事に庇護されてきた、いままでの私と同じように』

紫織はいったん、言葉をきって真澄をせつなげに見つめた。

『もうこれでお別れですわね』

紫織のぽつりともらした言葉に、真澄の胸は痛む。想いの叶わないつらさを、真澄はよくわかっていた。けれどどうしてあげることもできない。

『紫織さん…』
『もう、なにもおっしゃらないで』

俯いたその瞳に、まだ涙が光ったようにみえたが、薄暗いその場ではよくわからなかった。

『どうかお元気で。TOBの成功を祈るわけにはいきませんが』

そういって、ちょっと微笑んだ紫織は、いままでにない、しなやかな強さを垣間見せたような気がした。それからすっと後ろむくと、そのまま振り返らず去っていった。

フランスに留学した、と人づてに聞いたあとは全く音信がなかったが、つい一週間くらいまえに紫織から手紙が届いた。その手紙には、充実した学生生活とともに、フランス人研究者と知り合ったあと、愛を育み、来年には結婚式をあげることがしたためられてあった。

『私が彼を愛しているのと同じように、もしかしたらそれ以上に私を愛してくれています。真澄様からは感じられなかったものをはっきり彼に感じますから、間違いありませんのよ。(ごめんなさい。嫌味ではありません。どちらかといえば、のろけているつもりです)失恋もムダではなかったと、今はしみじみ感じています』

自分と婚約していたときの紫織は、内に秘めた芯の強さは感じたものの、控えめで、どこか従順なタイプにみえた。けれど手紙から伝わってくる今の彼女は、明るく闊達として、のびのびしているように感じられた。彼女の気遣いと、そしてなによりも、自分と別れたことで、より幸せな人生を、紫織自身の手で掴んだことが、真澄には嬉しかった。


「紫織さんも、新しい人生を歩みはじめたのか。君もほっとしただろうね。そうそう。君のお父上からの悲願だった、幻の舞台「紅天女」も大都で上演することに決まったそうだね」
「ええ、お蔭様で。来春、梅の季節に大都劇場で、公演を予定しております」

真澄は表情を緩め、穏やかにそういった。

「その紅天女を演じるのは、あの姫川さんを破ったという、確か北島マヤさん、だったよね」
「ええ。北島です」
「ふうん」

佐藤は腕組をして、ちょっと考えていたような顔をしていたが、ふと顔をあげて微笑んだ。

「君を変えたの、その天女様でしょう?」
「は?」

真澄はふいを突かれて、息もとまるほど驚いた。

「佐藤頭取、いきなり何を……」

動揺をうまく隠せない真澄をみて、佐藤は大笑いをした。

「やっぱりねえ。姫川さんと北島さん、どちらが主演の紅天女になるかを決める試演のすぐあとに、君と会ったじゃない。僕は、試演のことは知らなかったんだけど、最初、この部屋に入ってきた君は、半分くらい自分の魂をどこかに置いてきたような顔をしていた。それが僕と向き合ったとたん、恐ろしいほど気迫みなぎる表情で話しだしたから、呆気にとられてね。だからなんとなくそんな気がしたんだ」
「はあ」

ニコニコそんなふうに話す佐藤に、真澄はなんともいいようがない。

「君をここまで変えてしまったんだから、やはり彼女は、本物の梅の精なのかもしれないなあ。今度あわせてくれるかな、君の勝利の女神、いや天女様に」

 佐藤に真顔でからかわれ、真澄は苦笑しながらも開き直るしかない。

「来春の紅天女の公演に、佐藤頭取を招待させていただきます。そのときに紹介させてください」
「それは楽しみだな」

佐藤はそういうといたずらっぽく微笑んだ。

「さて、これから一席設けるから是非一緒に、って言いたいところだけど、やめた」
「え? それは…」

真澄が戸惑うようにそういうと、佐藤が鷹揚に微笑んだ。

「ようやくすべてが一段落した後の金曜の夜なんだから、僕と飲むより、天女様と早く会いたくて仕方ないだろう? そんな顔をしているよ」

 そういわれて、一瞬真澄は返す言葉を失う。まさにそのとおりだったのだから。この人には敵わない。そんな苦笑を浮かべて、真澄も切り返す。

「それでは、お言葉に甘えてもよろしいですか?」
「もちろん。実は僕も、高級料亭より、家で奥さんと晩酌するのが、一番スキなんだ」

 そういって、佐藤は強面の顔をくしゃりとさせて、少年のような人なつっこい笑みを浮かべた。