「もしもし? え? 速水さん? どうしたんですか? 今日は、遅くまで仕事があるから、伊豆の別荘にいくのは明日の早朝って…。え? 今ですか? 近所のお祭りに、つきかげのみんなと来ているところなんですよ。はい? お囃子が賑やかだからよく聞こえなくって……。ええ!! 今からここに来る? お祭りだから大勢、人がいますよ、うじゃうじゃっと。そんなところに、速水さんが来たらまた大変なことに……。場所? えーと、ほら、うちのアパートから一番近い商店街あるじゃないですか。あそこの路地はいったところに公園あるでしょう? ちょっと広い。そうそう、私がブランコをいつもこいでいた所。あそこで今、盆踊りをやっていて……。あ、あれ? 速水さん! 速水さん! 切れちゃった」
「マヤ、誰から?」
マヤがため息をつきながら、携帯を折りたたむと、それをみていた麗が声をかけてきた。
「速水さん。よく聞こえなかったんだけど、今からここに私を迎えに来るって」
「ええ!!!」
麗が、のけぞらんばかりの勢いで驚いた。
「あの人がこんな所にきたら、パニックになっちゃうじゃないの?」
「だから私も、人がいっぱいいるし、っていったんだけど、全然聞いてなくて、電話が切れちゃった」
マヤがはあ、とため息をついた。ふたりの会話を聞いていた、つきかげのメンバーもふたりの周りにわらわらと寄ってきた。
「なに? あの速水さんが、ここに来るの?」
さやかがすごい勢いでそう尋ねると。マヤはこくん、と頷いた。
「ひゃ〜。ホントに? 今や大都芸能に所属しているどんなタレントよりも人気がでてしまった、あの速水社長に会えるなんて光栄だわ」
そういって、さやかはものすごく楽しそうに笑った。
「ちょっとさやか。そんなこと大声で言わないでおくれよ」
麗が、さやかをしぃーっとたしなめる。
「ごめん、ごめん。だって、速水さんてば、あの鷹通との一件で、テレビにでまくったおかげで、超やり手な上にかっこいいものだから、『イケメンすぎる社長』なんて呼ばれて、すごい人気がでちゃったでしょう。しかもファンクラブやら、おっかけまでいるっていうんだから。マヤ、あんたもすごい人、彼氏にしちゃったねえ」
さやかは朗らかに笑った。いままでの、ふたりの間にあった過去もすべて知っているからこその笑顔だった。
「さやかったら、人ごとだと思って。この前ようやく、速水さんと会えたときなんかひどかったんだよ。少しだけ時間がとれたからって、その貴重な時間で、カフェでお茶をしようとしたら、あっという間に速水さんのファンに囲まれて、タイムオーバー。しかも誰も私なんか眼中ないの。所属事務所の社長が、女優よりも目立つっておかしくない?」
そういってぷうっとふくれた顔をみせたマヤに、まわりの人間は思わずふきだしそうになる。
「聞き捨てならないな。誰の話だ?」
「うわ、速水さん!」
一斉にみんなで後ろを振り返ると、Tシャツにジーンズ、というラフな格好で、サングラスをかけた真澄が腕を組んで立っていた。あまりにも来るのが早い上に、いつものイメージとは180度違う真澄の姿に皆、呆気にとられたが、一人、マヤだけが、ずいっと前に出た。
「早すぎ。もう、ここにいるなんて忍者みたい」
「久しぶりに会えた恋人に、忍者みたい、はないだろう。しかも、こそこそ俺の悪口いっているし」
「悪口なんていってないですよ〜だ。こんなに人の多いところに速水さんが来たら、また大騒ぎになるって、話をしていただけです」
「大丈夫。こういう格好をしていれば、あまり周りには気づかれない、って最近わかったから」
「へえ。それでも、まわりの女の人が、チラチラみていますよ。イケメンすぎる社長」
「だから! その呼び方はやめてくれ、って言っているだろう」
「はいはい! そこまで」
いつまでも続きそうな二人の掛け合いに、麗が、さっと間にはいった。
「マヤ、あんたも久しぶりで速水さんに会えたからって、照れ隠しにそんなに、わーわー言いなさんな。速水さんも速水さんだ。こんなに人がいっぱいいるところで、じゃれあっていたら目立ってしょうがないでしょう。もういいですから、ちゃっちゃとマヤを連れていってくださいよ」
マヤも真澄もそういわれて、一瞬顔を見合わせたが、すぐにふたりして吹きだした。
「青木君、すまないな。マヤを二日ばかり借りるよ」
「そんなこと、わざわざ言わなくていいですよ。わたしゃ別に、この子の保護者でもなんでもないんだから」
「そんな! 麗、冷たいこと言わないで」
また話が脱線しそうになったので、麗が、だあっ、と叫びながら自分の頭をぐちゃぐしゃっと掻いた。
「わかった、わかった。もうなんでもいいから、早くいっとくれ。ほら、そろそろまわりも気づいちゃうよ」
「そうだな。ほら、マヤ行くぞ。それじゃ」
そういって、他のつきかげのメンバーにも軽く会釈すると、真澄はぎゅっとマヤの手首を握って、ずんずん歩きはじめた。
「ご、ごめんね〜、みんな。またね」
真澄に引きずられながら、マヤは一生懸命皆に手を振り、そのまま人ごみの中に消えていった。みんなでその方向をぼんやりと見ていたが、美奈子が、ぼそっと呟いた。
「やっぱり、ホントにつきあっているんだ、あの二人。あれほど有名な二人が、よくつきあっている事、バレてないよね」
さやかも、あっけにとられたまま頷いた。
「まあ、いままで二人とも超忙しくって、全然会えてなかったみたいだから。しかしまあ、ああいう格好している速水さん、初めて見たけど、速水さんとはわからなくても、かなり人目をひいていたよね? 確かにイケメンすぎる社長だわね」
泰子も頷いたまま試案顔でつぶやいた。
「それにしても速水さんってああいうキャラだった? なんかイメージが全然違うんだけど……」
泰子のその言葉に、麗が首をふった。
「いや、ずうっと昔から速水さんはああだったよ。マヤと一緒にいるときだけは、ね」
麗は、真澄とマヤが消えていった方向を見つめながら、ふと優しい微笑みを浮かべた。
真澄が運転する車が伊豆の別荘についたのは、夜九時を過ぎていた。それでもマヤが別荘に入る前に海をみたい、と真澄にせがんで、二人して海岸を散歩していた。
「二時間以上しゃべりっぱなしで疲れなかったのか?」
「全然。元気イッパイですよ」
真澄が苦笑しながら、冷えたミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。マヤはそれを口に含む。乾いた喉を、ゆっくりと水が流れていって、潤っていく。火照ったからだにゆっくりと透明な水が染み込んでいく感じが、ひどく心地いい。寄せては返す波の音の穏やかさ。気持ちのいい風がときおり、すっと吹き抜ける。ビロードのような漆黒の海の上には、ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。そして隣には、マヤが口つけたペットボトルを当たり前のように、ごくごくとおいしそうに飲んでいる真澄がいる。
マヤは、車の中では二日まるごと、ずっと真澄と一緒にいれるのが、死ぬほど嬉しくて、楽しくて、仕方なくてしょうがなかった。この一年、まともに会う時間などほとんどなかったのだから。
けれどいざ、別荘についてみると、真澄と二人きりになることが、気後れするような、ドキドキしてしまうような気分に襲われはじめて、なんとなく勢いで海辺への散歩に誘ってしまったのだ。
そもそも。マヤを迎えにきた真澄を見たときから、心臓がいつもよりも早いテンポで脈打ち始め、心のざわめきが、とまらなくなっていた。普段はいつもきちんとしたスーツ姿なのに、いきなりラフな格好で現れた真澄。それが妙に似合っていて、どこか色っぽくて、久しぶりに会えた嬉しさと気恥ずかしさ、それに胸が痛くなるようなときめきが混ざり合って、ついついあんな憎まれ口を叩いてしまったのだった。
けれど、そんな自分に振り回されている真澄が、疲れていたかもしれないことに、はたと気づく。
「速水さん、疲れていませんか? ごめんなさい、散歩にさそったりして。仕事のあとに、ここまで運転してくれたんですもんね。もう眠かったりします?」
マヤがおずおずとそういって、真澄の顔を見上げると、真澄はいたずらっぽい表情を浮かべて、ふっと笑った。
「まさか。これくらいで疲れるわけがない。ましてや君が隣にいるのに、のんびり寝るなんてこと、とてもじゃないが俺にはできないな。君が昔、あの梅の谷の社務所で俺の腕の中でくーくー気持ちよさそうに寝てしまったようにはね」
真澄の言葉を聞いて、マヤは呆気にとられたような顔をしたあと、すぐに夜目でもわかるくらいに、頬が紅潮した。そんな彼女をみて真澄は大笑いする。
「ど、どうしてすぐに、そうやって私をからかうんですか。もう!」
そういうと、突然波打ち際まで走りだし、素足になって波とたわむれはじめた。
マヤの後ろ姿をみつめながら、真澄は苦笑したまま、乾いた砂の上に腰を下ろした。穏やかなこの時間にたどりつけたことを、真澄は心から神に感謝した。
試演が終わってからこの一年、二人で会えたのは、片手で数えられる程度、しかもその中には、マヤのもつ紅天女の上演権の管理と、マヤ本人が大都芸能に所属するための打ち合わせもはいっているという有様だった。真澄は、グループ全体を持ち株会社化するために、それこそ東奔西走を余儀なくされていたし、マヤはマヤで、紅天女に決定してから、怒涛の取材攻勢に映画、ドラマ、舞台へのオファーが殺到。まるまる一年間、二人ともまったく身動きがとれない状態で、過密スケージュのすき間時間をみつけては、メールや電話するのが、精一杯だった。けれど、ようやく最近になって、二人とも余裕がでてきたので、この週末に休みをあわせ、
伊豆の別荘に行こうということになったのだった。
真澄は、マヤの後姿をみつめながら、試演でのマヤの紅天女を知らず知らずにまた、反芻していた。
マヤのみせた圧倒的な紅天女は、幕が閉じたあとも、真澄を強く捉えて、立ち上がらせてくれなかった。マヤに恋をしている自分が、マヤの演じる阿古夜にまた、恋をしていた。海のように深い母性、女としての美しさ、哀しさ。梅の精としての、あまりの神々しさ。それらが怒涛のように自分の中に流れ込んできて、息が止まるような、激しい衝撃を受けたのだ。
確かに、あれはまぎれもなく、本物の紅天女だった。観客すべてがみな、彼女に魅了され、虜になった。頑なだった紫織の心を溶かしたのも彼女だ。
まさに奇跡のような存在。紅天女によって間違いなく、演劇界、ひいては日本の至宝といわれる存在にのぼりつめるだろう。そんな神聖な存在であるマヤに、自分のような人間が、手を触れてはいけないような気がしてしまう。
けれどようやくマヤと一緒に生きていける権利を手にいれた今、だからといってこれ以上、
離れて暮らしていくことには耐えられそうにもなかった。
誰もが避けることのできない死が、将来二人を裂くことを想像するだけでも、息苦しくなってしまうくらいなのだ。
とてもあの一真の心境に近づくことなどできないだろう。自分は、いつからこれほどまでに悲観主義者になってしまったのか、と真澄は苦笑する。
人は、こうやって人生の中で一番大切なものを得た瞬間に、今度はそれを失うかもしれないという恐怖と、
戦わなければならないのかもしれない。
「速水さん」
マヤの声にはっとして、顔をあげると、いつのまにかマヤが、心配そうな顔をして目の前に立っていた。
「マヤ? どうした?」
真澄があわててそういうと、マヤが首を振った。
「速水さんが、なんだかすごく辛そう顔をしてるように見えたから……。どうしたんですか?」
真澄は、びっくりしてマヤの顔を見上げた。マヤは瞳を潤ませて、真澄をじっと見つめている。真澄は悟る。彼女は、間違いなく、自分の微かな心の痛みにすら敏感に反応するのだ。自分が、マヤの痛みにすぐに反応してしまうように。真澄は微笑んだ。ゆっくりとマヤのほうへ手を伸ばす。
「そんな顔をしないでくれ。君がそばにいてくれたら、大丈夫だから」
マヤは不安そうな表情のまま、ゆっくりと真澄のほうへ近づくと、いきなりぎゅっと真澄に腕をつかまれ、そのままバランスを崩し、彼の胸の中に倒れこんだ。二人の顔が近づく。
「君の紅天女を思い出していた」
「え?」
マヤは、真澄の腕の中で、彼の顔を覗き込む。
「間違いなくあれは本物の天女だった。あまりにも神々しくて、美しくて、この世のものとは思えなかった。俺の手には絶対届かない場所にいた君を思い出したら、なんだか苦しくなった」
真澄の苦笑しながらそういった言葉を聞いて、マヤはようやくふっと微笑んだ。それから真澄の首に手をまわして、真澄を優しく抱きしめた。
「私があのとき、紅天女が演じられたのだって、速水さんが贈ってくれた、たくさんの紫のバラとカードがあったから。あなたを思いながら、いつのまにか阿古夜になっていたの。あなたがいたから、私は紅天女が演じられた」
マヤの香り。華奢な体の温もり。それらに包まれて、真澄はどうしようもない幸福感に浸る。こうしていると、この週末の休暇の間に、必ずマヤに言おうと思っていた言葉を、すぐにでもいいたい衝動に駆られていく。
もっと頃合をみはからって、しかるべきタイミングに。そう思っていたのに、今、この瞬間にどうしても伝えたい。自分でも抑えようもない焦燥感が心臓を、早鐘のように、打ち始めさせる。いままでの人生の中で一番緊張しているかもしれない、と真澄は、息をゆっくりと吸い込んだ。
「マヤ」
「なんですか?」
ゆっくりと、真澄の肩のあたりから、顔をおこしたマヤの黒目がちの瞳が、月光を吸い込んだように、艶やかにきらめいた。
「俺と結婚してくれないか?」
真澄がそういった瞬間、ふっとマヤが微かなとまどいと共に、息を呑むのがわかった。真澄の心臓が、ことり、と音をたてて止まりそうになった。じっとマヤの瞳を覗き込んだまま、答えを待つけれど、マヤの口は一向に開く気配がない。真澄が、苦しげに言葉を絞りだす。
「いや、なのか?」
その問いに、マヤはぶんぶん、と首を横に振る。
「そうじゃない…ですけど。でも」
「でも?」
真澄はかなり緊張しながら、マヤの言葉を待った。
「でも、速水さんは今度、大都グループ全体のトップ、になるのでしょう? そんな人の奥さんなんて、私に務まるのかな。それにあなたのお義父さんだって、ワタシのこと嫌っているような気がするし。あんなコムスメに、あなたのお嫁さんなんか無理だ、って笑われそう」
「君が、はっきりと答えてくれない理由って、それだけか?」
マヤがこくん、と首を縦に振ったので、真澄ははあ、っと大きくため息をついた。それから、マヤを抱きしめる腕の力をこめた。
「君は超一流の女優で、あの紅天女なんだ。俺の立場など気にする必要なんてまるでない。それに。親父が君を嫌っているわけないだろう。あの人が、嫌いな人間と何度もお茶したり、ましてやパフェなんか一緒に食ったりするもんか。表面上は無関心を装うかもしれないが、腹の中では君が速水の家に来てくれたら、喜ぶに決まっている」
「そうかな……」
「そんなことよりも、君の気持ちが聞きたいんだ。俺は、これからずっとずっと、君と一緒にいたい。君が毎日、俺のそばで、笑っている顔がみたい。芝居に夢中になっている君を、見つめていたい。片時でも離れているのは、もう我慢ができないんだ。俺の知らないところで、君がヘンな男に誘惑されたりしているんじゃないか、どこかで事故にあっているんじゃないか、と思うだけで、気が変になりそうになる。俺は君よりも十一も年上な上に……とても罪深い人間だから、君に対してもひどいことばかりしてきたし、まわりにも、敵が多い。けれど、君を想う気持ちだけは、誰にも負けない自信がある。俺の一生を賭けて、必ず君を守っていくから。マヤ」
マヤの耳元で囁かれた真澄の切実な言葉たちは、今、まわされている真澄の腕と同じように、彼女の心をもひし、と抱きしめる。真澄が、自分の心を包み隠すことなく、まっすぐな気持ちで、まるごとのマヤを求めていることがはっきりと伝わってくる。マヤは、不安やいつもの引っ込み思案が、ゆっくりと潮がひいていくように、心の中から洗い流されていくのを感じた。
この人に自分は間違いなく不釣合いだろうし、きっと、たくさん迷惑をかけてしまうだろう、とマヤは思う。けれども、彼が自分の弱さも含めてすべてさらけだし、全身全霊で自分を求めてくれる限り、自分も精一杯それに応えたい。
――― ううん。それよりもなによりも。私の心も、速水さんをどこまでも求めてやまないから。
「私も、あなたとずっと一緒にいたい」
ふと、もらされたその言葉に、真澄がゆっくりと顔をあげて、マヤの顔を見つめた。
「本当に?」
真澄の声は掠れていた。マヤはゆっくりと頷いた。
「速水さん。……ううん、真澄さん、私をあなたのお嫁さんにしてください」
真澄の表情が、驚いたもののまま、一瞬固まった。けれどすぐにそれは、ゆっくりと笑顔に変わっていく。初恋を実らせることのできた少年のような、素直でなんの飾りけもない、とびきりの笑顔に。
真澄はゆっくりとマヤの頬に手をあてて、彼女のバラ色の唇を優しくふさいだ。マヤも彼の首に両手を絡めて、それに応える。キスは止まらなくなる。心も体もすべてが溶け合いたいと願う二人が、永遠にどこまでも求めあうかのように。
どんどん深くなっていく口づけに夢中になっていく恋人たちを、たっぷりと光を湛えた月が、優しく包むように照らし続けていた。
画 / 双子魂管理人