マヤはふっと、目がさめた。外はまだほの暗いけれど、窓のすきまから差し込んでいる、一筋の透明な朝日が、頬をなでたような感触を感じた。多分ほとんど寝ていないだろう。一瞬、気を失ったような感じの眠りだったのに、意識はものすごくクリアだった。いつもと違う、暖かく包まれるような感触にはっとして、横をみる。すると自分と同じ布団に包まって、マヤを抱きしめるように寝ている真澄がいた。しかも二人とも全裸だ。ようやくどういう状況だったか思い出して、マヤの顔は、かあっと火照ってくる。とりあえず服を着ようと思ったけれど、きつく抱きしめられているので、ほとんど体が動かせない。マヤは真澄を起こさないように、少しずつ体の位置を移動させて、真澄の手をはずした。今の時間が知りたくなった。枕もとにおいてあるはずの目覚まし時計を、寝たまま手探りで探そうとするけれど、見つからない。手をぱたぱたさせて、床を手探りしていると、手のひらにごつん、とあたるものがあった。そっと持ち上げてみると、真澄の腕時計だった。文字盤がとても大きくて、そしてとてつもなく重かった。

「うわ、重い…」

そう呟いて、その腕時計を顔に近づけてみると、まだ5時前だった。そっと腕時計を元の位置に戻す。あんな重い時計をしているなんて。そう思って、真澄の手をまじまじと見てみる。手のひらはとても大きく、手首はとても骨ばって、しっかりとした造作をしているから、あんなに重いものだって、楽々とつけてしまえそうだ。けれどその指先は、細くてすんなりとしていた。繊細そうなその指先で、何度自分は、高みに連れて行かれただろう。そう思うと、勝手にまた頬が赤くなり、あのとき全身を覆っていた熱が、マヤの中で、くすり、とけぶり始めてくる。ゆっくりと彼の寝顔へと視線をうつす。さらさらの茶色の髪の毛が、広い額にかかっている。彫の深い、端正な顔立ち。さきほどまでマヤをすっぽりと包んでいた大きな胸は、規則的な呼吸を刻んで上下している。とても静かな寝顔。今、現実の彼の置かれている場所とは、別世界にいるみたいだ。そう思うだけで、マヤはじわりと幸せを感じる。
昨夜の真澄は、ひどい餓えを抱えていたかのように、むさぼるようにマヤを何度も求めてきた。その様はひどく情熱的で、まぎれもない『男』を感じさせた。そして。自分もまた、そんな真澄を、どこまでも受け入れることができる『女』だったと思い返すと、胸がまた高鳴り、肌が粟立ちはじめてしまう。彼が触れた体中の皮膚や感情のすべてが、自分でもどうしていいかわからないほど、真澄がいとおしいと叫んでいる。心の一番深い場所が、ぐっと掴まれたように痛くなる。

「どうした?」

ぐっすり眠っていると思っていた真澄が、ぱっと目を開けたから、マヤはかなり驚き、慌てた。

「あ! 起こしちゃいましたか?」
「どうして泣いている?」

マヤは自分でも気づかないうちに泣いていたらしい。疲れているのに起こしてしまったうえに、目を細めて心配そうにしている様子をみていたら、申し訳ないやら恥ずかしいやらで、あわてて笑顔をつくってあわてて手の甲で涙をふく。

「な、なんでもないんです」
「なんでもないのに、泣いたりしないだろう。もしかして、…辛かった、とか? 君は初めてだったのに、俺が無理をさせてしまったから…」

真澄が、どこかすまなさそうに呟くのを聞いて、マヤはぶんぶんと首をふる。

「ち、違います! それは大丈夫ですから。本当にたいしたことではないんです」

こんな勢いで、大丈夫だ、と反論するのもなんだかおかしいと思いつつ、マヤが顔を赤くしてそういっても、真澄はまだ心配そうだった。

「じゃあ、どうして泣いていたんだ。理由を聞かないうちは落ち着かない」
「あの、そうじゃなくって…」
「そうじゃなくって?」

 マヤが答えるまで絶対、後にはひかなそうな真澄に、マヤは諦めたように、小さい声で呟いた。

「あなたがすごく好き、って思ったら、勝手に涙がでてきたんです」

 真澄はそれを聞いて目を見開き、そのままたっぷり数秒間静止した。そんな真澄を見て、マヤがため息をついた。

「ほら。だから…たいしたことじゃないって、言ったじゃないですか」

 マヤが照れ隠しに怒ったようにそういうと、真澄が、さきほどから差し込んでくる朝日のように、マヤの心にじわりと染み入ってくるような、甘い笑みを浮かべた。

「どうして君は……」

真澄はそういったきり、いきなりマヤを腕の中に閉じ込めると、マヤの頬に手を伸ばして、ゆっくりとその唇に自分のものを、押し当てた。腕の拘束の、あまりの強さに、彼の胸に手をついて、逃れようとしたけれど、次第に深くなっていく口づけに、次第に体から力が抜けて、真澄のなすがままになる。真澄が、マヤの唇をきゅっと最後に吸い上げて、ようやくマヤを解放したときには、マヤの瞳はまたぼんやりと潤んで、真澄を見つめた。真澄もそんなマヤをじっと見つめていたが、大きくため息をついた。

「また死ぬほど、君を抱きたくなった。もう行かなくてはいけないのに」
「え? もう…ですか?」

その言葉は、ぼんやりと官能に漂っていたマヤの意識を、現実に引き戻す。じっと目を細めてマヤを見つめていた真澄も、諦めたようにその頬にキスを落としてから、着替えるために、ゆっくりと体を起こした。薄闇の中ではよくわからなかったが、カーテンから差し込むわずかな光の中でも男らしい、がっしりとした彼の体のラインがはっきりとわかってしまい、思わず視線を逸らす。

「朝一番で屋敷に戻って、親父に会う。これ以上君に、ちょっかいをかけられたら、たまらないからな」

真澄はそういいながらも、結局はその英介が図らずも、自分とマヤを更に強く結びつかせるきっかけになったことに、どこか腑に落ちないものも感じていた。本気で自分たちの仲を裂こうとしたのならば、この程度の横槍だけですますような人間ではないことを、真澄が一番よく知っていたからだ。だからこそ、マヤとの関係をひた隠しにしていたのだ。

「速水さんのお義父さん、なんだか悲しそうだった」
「え?」

 真澄が、ワイシャツのボタンをはめる指を止めた。

「私、速水さんのお義父さんってちっとも気がつかないで、ずいぶん前からお茶をしたり、パフェを一緒に食べたりして、仲良くしていたんです。『缶ジュースのおじさん』って呼んで」
「なんだって?」

真澄は呆れてつい大声を出したが、マヤは上半身だけ起こした体に、タオルケットを巻きつけて、ぼんやりと記憶をたどるように遠くをみつめている。

「いつもは優しい、普通のおじさんだったんです。お付の人がいつも一緒にいるから、エライ人なんだろうなあ、とは思っていたけど」
「親父に気がつかないのもすごいが、あの人に、損得勘定関係なく、パフェを食わせることができるのは、世界広しといえど、君ぐらいなものだろうな」

マヤの動向でも探ろうと近づいたものの、いつの間にか彼女にひきつけられてしまったに違いない。全くとんでもない娘だ、と真澄はため息をついた。

「でも。こないだ会ったときはいつもと雰囲気が違ったんです。すごく威厳というか、威圧感があって恐いくらいだった。けれど私に、速水さんから離れろ、って言った時、今おもえば、どこか悲しいそうというか、苦しそうな感じがしたんです。そのときは私も、必死だったから、速水さんのお義父さんのことまで思いやる余裕がなくって……」
「そうか」

マヤの話を聞いていると、真澄が腑におちなかったポイントと、微妙に重なってくるような気がしてきた。どちらにしても、英介の真意を見極めなくてはいけないだろう。真澄は着替え終えると、マヤの前にゆっくりとひざまずいた。マヤが、はっとしたように顔をあげた。

「残念だが…もう行かなくてはならない。またしばらく会えなくなるな。君の試演での紅天女は、時間をやりくりして絶対に観に行くが、おそらく、すぐに外にでなくてはならないから、君に会う時間もないだろう。それでも」

真澄はその大きな手のひらで、マヤの頬をそっと包む。

「マヤ、君ならきっと、本物の紅天女を見せてくれると信じている。会いにいけない代わりに、たくさんの紫のバラを贈ろう。いつでも、どんなときでも君のことを想っているから。そばにはいられなくても、俺の心はいつでも君といる」
「速水さん……」

マヤの瞳から、透明な涙が一粒、すっと頬を流れた。真澄が指でそっとなぞると、その水滴はゆっくりと指先に吸い込まれ、消えた。

「迷ってはいけない。君の中に紅天女はすでにいる。俺にはそれがわかるんだ。俺も、俺の戦いに絶対に勝つから」

しばらくじっとお互いを見つめあう。新しい一日を照らし始めた朝日が、本格的に部屋の中に差込み、マヤのむき出しの白い肩に反射する。真澄は目を細めて、吸い寄せられるように、そこに唇を落とした。彼の唇の熱が、マヤの白い肩から溶けて、甘くせつなくなるような痛みが、彼女の全身にゆっくりと広がっていく。それとともに、なにかがマヤの中で弾け、皮膚の下で大きなうねりが湧き上がる。そんな感覚を感じ取りながらも、マヤの意識はどこまでも澄み渡り、一点の曇りもなかった。

マヤは、顔をあげた真澄の唇にそっとくちづけた。

ただ、呼吸を交換するようなキス。

ゆっくりと唇を離して額を寄せ合い、真澄とみつめあう。それから。あさがおの蕾がゆるりとほどけたような、柔らかな笑顔を、鏡に映したようにふたり一緒に浮かべた。



   

「お義父さん、おはようございます」

午前七時の速水邸のダイニング。朝食を終えた英介は、ドアを開けて、はいってきた真澄の声を聞いて、ゆっくりと顔をあげた。英介は、久しぶりにみる真澄の変化に、正直驚く。最後に会ったときも、その気配は感じたが、すべての迷いを吹っ切ったような、すがすがしいほどの凛とした佇まい、彼が本来もっていたのかもしれない、情熱的でまっすぐな瞳など、まるで人違いをしたのか、と思わせるほど、真澄の印象は変わってしまったようにみえた。それでも英介は、そんなけぶりは一切見せず、ただ真澄を一瞥しただけだった。

「よくもずうずうしく、わしの前に顔をだせたものだな」

 お茶をすすりながら、そう呟いた英介に、真澄は苦笑した。

「申し訳ありません。朝からお義父さんの気分を害したくなかったのですが、どうしてもお会いして、話を伺わなければならないことがあったものですから」

そうあっさりといって、英介の目の前にすわった真澄を、英介はじろりと睨んだ。

「ほお。ここしばらく屋敷に寄り付きもしなかったお前が、このわしに何を聞こうというのだ」

英介がそういうと、真澄は顎をひいて、すっと背筋を伸ばした。

「マヤに、私から離れろ、そうおっしゃったそうですね」

 英介は、その言葉を聞いて、にこりともせずに答えた。

「やっぱりそのことか。わしは離れろなんていっていない。お前を捨てろ、といったんだ。だが、やはりあの娘にはムリだったようだな」

英介のその言葉に、真澄は瞳をぎゅっと細め、警戒するような表情を浮かべた。

「やはり…とはどういう意味ですか?」

 英介は憮然としたまま、真澄を見すえた。

「お前のほうが、あの娘にひどく執着しているからな。いったんはお前を捨てる決意をしたのを、どうせお前がまた、無理やり説き伏せたんだろう」

そういった英介に、真澄は思わず苦笑する。

「そこまでおわかりなら、余計なことをマヤに言わないでください。お義父さんのおかげで、あやうく本当に捨てられてしまうところでしたよ」

そんなことを臆面もなくさらりという真澄を、英介が苦々しげに睨んだ。

「ふざけるな。お前も自分の責任についてよく考えてみろ。お前の肩には、大都グループ社員の生活がかかっている。目の前にある最善の策をとるために、あの娘をあきらめるくらいのことができなくて、トップの人間としての責任を果たせるとでも思っているのか」

英介が目の前のお茶をごくりと飲んだ。しーんとした空気が一瞬流れたあと、真澄は真剣な面持ちで、英介に向かって口を開いた。

「お言葉ですが、私は今、自分の気持ちに正直に、真摯に生きたいと、強く思っています。それこそが、これからの大都を動かしていく原動力になると信じるようになったからです。もちろん、マヤに溺れて、仕事に対する勘どころがおかしくなったり、おざなりになったりするようでは、彼女を愛し、愛される資格もないし、経営者としても失格です。ですが、何にも変えがたい、彼女の存在そのものが、私に生きる道を教えてくれたのです。今、私個人の生き方としても、大都芸能の社長としても、最善の道を歩んでいる、そう信じています」

低く、けれどよく通る声で、英介をじっと見つめながら話す真澄を、英介は眩しげにみつめた。以前の、感情を押し殺して、どこか暗い瞳をしていた真澄はもういなかった。迷いがない、まっすぐな情熱がはっきりと伝わってくるようなひたむきさと、今までの経験に裏打ちされた落ち着きが、静かに折り合って、真澄を包み込んでいる。

「紫織さんから株を買い取るつもりはありません。これ以上紫織さんの気持ちを踏みにじることなど、私にはできませんから。ですが、必ずこの難局を乗り切ってご覧にいれます」
「ほお。紫織さんから株を買わないで、どこから買うつもりだ。もちろんあてはあるんだろうな」
 「はい」

そういって、真澄はすっと顔をあげると、英介の厳しい視線を正面から受け止めるように、凛と響くようなはっきりした声でいった。そんな真澄の瞳から思わずつい、と視線をそらして、英介はため息をついた。

「どうやってもあの娘をとる、ということか」
「ええ、お義父さん。そのことに選択の余地はありません」

この血のつながらない親子は、そのまましばらくじっと押し黙ったまま、動かなかった。

「陰と陽、求め合う魂、か……」

 しばらく重苦しい沈黙が続いたあと、英介がぽつり、と呟いた。

「え? 今なんて…?」
「真澄にだまされているとは思わないのか、とあの娘に聞いたんだ。お前の過去が過去だからな。そうしたらあの娘、なんといったと思う?」

いきなりそう聞いてきた英介に、真澄は思わず口ごもる。

「いえ、わかりかねますが…」

英介は、そのときのことを思い出したように、苦笑しながら呟いた。

「たとえ、お前にだまされていたとしても、使い捨てにされたとしても、関係ないそうだ。紅天女になれたとして、お前が上演権が欲しい、そういえば無条件で差し出すし、もう北島マヤはいらない、といわれれば、黙って去るのだと。ただ、お前が求めることならすべてしてあげたい、とね」
「…………」

 真澄は、硬直したように、びくりとも動かなかった。そんな真澄の様子を英介は、静かに見守った。

「このわしに向かって、ぬけぬけとそういいおった。今のお前と同じような目をしてな」
「お義父さん……」

 真澄が掠れた声でそう呟くと、英介は首を振って車椅子を反転させた。

「お前の好きにするがいい。わしは、もうこの件ではなにも口をださん。ただし、お前がすべてに失敗したら、武士の情けで切腹の介錯ぐらいはしてやる。死ぬ気でやれ」

真澄はゆっくりと穏やかな微笑みを浮かべて、すっと立ち上がった。

「ありがとうございます」
「早く行くがいい。やることは山ほどあるだろう」
「お義父さん」

 真澄がふいにまじめな声で問いかけてきたので、英介はやむなく振り返った。真澄がいままで見たこともない、いたわるような、優しい目をして自分をみていて、はっとする。

「お義父さん、マヤの紅天女をみてやってください。彼女は、お義父さんが長年追い求めてきた紅天女を必ず、みせてくれるはずです。きっとマヤも喜びます」
「ふん、それはどうかな」

そういいながらも、そのまま動かなくなった英介をみて、真澄は目を細めた。それから英介の背中に向かって一礼すると、ダイニングから出て行った。

ばたり、と真澄がしめたドアの音を聞いて、英介はふっと力を抜いた。真澄の前ではいつも、大きな存在であろうとしてきた。しかし。英介が追い求めても、決してえることができなかったものを真澄は今、つかみとろうとしている。そしてそれを守り抜くため、必死に戦っている。あれほどもつれた糸をたぐりよせ、互いに愛し合うようになったマヤと真澄。もしかしたらあの二人は、互いに求めあうように、うまれついた魂なのかもしれない、などと柄にもなく考え、苦笑する。

そうでも考えなければ、どこかやりきれなかった。

体の自由を奪われても、激しいほどの情熱をもって千草や紅天女を追いかけ続けた日々はもう、はるか昔のことになってしまった。間違いなく、ひとつの時代が終わったと英介は感じていた。千草の紅天女は、マヤか亜弓に引き継がれて、また新しい命を宿すだろう。英介がここまで大きくした大都も、真澄の代で大きく変貌していく。すべては自分の手を離れ、新しい形に進化しながら、未来へとつながっていく。

英介は、車椅子の背もたれに体を預けると、ゆっくりと目を閉じた。