「うっ、うっ、うっ、え……え……」

止まらない嗚咽に、マヤは体をまるめて、布団を頭からかぶって、必死で耐えていた。真澄に、言ってはいけない言葉を、とうとうぶつけてしまった

真澄はどれだけ自分を大切に思ってくれていたのだろうか。紫のバラの人としても、大都芸能のイジワルな社長としても、その行動、言動は表裏一体で、すべてマヤのためだった。マヤを愛している、と告白してくれたときも、普段は冷静沈着で、クールそのものの真澄の手は、震えていた。マヤを眩しげに見つめてくれた少年のような表情も、情熱的なキスをしているときの男性的な激しさも、惜しげもなく注いでくれた愛情のすべてだった。しかも真澄は、彼の人生すべてを賭けて、マヤとの将来を掴もうとしてくれていたのに、その彼の手を自ら断ち切ってしまった。

マヤの母親のことは二人にとってタブーだった。自分も昔、苦しみぬいた母親の死。そんな自分をずっと見つめ、責任を感じていた真澄の苦しみだって計り知れないことを、十分承知していた。あれほどまでに真澄が自分に対して臆病だったのは、母の死が二人の間に横たわっていたからだ。そのことを痛いほど感じていたからこそ、知っていたからこそ、あんな言葉を、真澄に向かってあえて投げつけたのだ。

イタイ。イタイ。クルシイ。

真澄の痛みは、間違いなくマヤの痛みだった。マヤは、真澄に与えた痛みを、自分にも寸分たがうことなく与えていた。マヤは、どうにも止まらない嗚咽を、なんとか抑えようと、大きく息をついた。そのときだった。

ドン、ドン、ドン

アパートの安普請の薄いドアが、少し乱暴にノックされて、マヤはぴくりと、体を起こした。思わず枕もとにある時計をみると、針は夜中の一時少し前を指している。

「マヤ、いるんだろう。開けてくれ」

真澄の掠れた声を聞いて、マヤは思わず手を口に当てる。動きをとめたまま、ドアのほうを凝視していると、さらに強くドアが叩かれた。

「マヤ、ここを開けろ」

低い呟きのようでありながら、切迫感に満ちた真澄の真剣な声に、反射的に立ち上がった。のろのろとドアまで歩いていって、ドアの前で立ち尽くす。ドア一枚隔てて真澄がいる。そう思っただけで、さきほどまで泣きはらして、枯れ果てたと思っていた涙が、また溢れそうになる。

「ダメ、だめです。速水さん。かえ…ってください。私のことは放っておいて……ください。お願いだから」
「もう一度、言う。ここをあけろ。開けるつもりがないなら、蹴破ってやる。本気だ」

抑えた低い声。マヤはぐっと唇をかみ締める。いま、日本のニュースを席巻している買収劇の渦中にいる真澄が、こんな夜中に騒ぎをおこしたら、どんなに大変なことになるか。けれど、そんなことすら全く厭わない強い意志が、その声には間違いなくあった。

マヤは震える指先を伸ばし、ゆっくりと鍵をまわした。かしゃり、という音と同時に、とても強い力でドアが開かれ、真澄が風のような素早さで、部屋の中に飛び込んできた。ばたり、とドアを後ろ手でしめて、すぐに鍵をかける。

狭い玄関で、真澄と向かいあう形になったが、マヤは顔をあげることができない。真澄は走ってきたのだろうか。はあ、はあ、と荒く息をしている。玄関より二十センチくらい高いところにマヤは立っているから、いつもよりも真澄の顔が近くにあるはずだ。久しぶりに会った真澄の、その存在感に圧倒される。彼の香りがマヤの胸をしめつけて、またしゃくりあげそうになったから、その声を無理やり肺へと追い戻す。

「マヤ、顔をあげなさい」

思わずかぶりをふると、真澄の手がふっとマヤの顎のほうに伸び、ぐいと掴まれた。そのまま顔を無理やり上げられる。そうされてしまったら、瞳をそらすことなんかできなくなる。

ずっと電気をつけない部屋にいたから、薄暗い玄関でも、真澄の顔がよく見えた。久しぶりに、まじかでみる真澄。ああ、やっぱり痩せてしまった、と思う。けれど引き締まった真澄の顔は、さらに精悍さとシャープさを増したような印象を与え、より彼を美しく見せていた。けっして、疲れきってなどいない、まだ、戦いを諦めていない男の顔。そのクールな切れ長の瞳は、心のうちなど決して見せまいとするように強く、冷たく光っている。ああ、この顔はよく知っている、とマヤはぼんやり思う。彼が感情を押し殺しているときに使う顔だ。しかし、マヤと目があったとたん、緊張の糸が切れてしまったように、真澄は苦しげに目を細め、引き結ばれていた唇をそっと開いた。

「どうしたんだ、その顔。目がひどく腫れている。そんな顔じゃ、女優なんかできやしないぞ」

冷たい表情が緩んで、その口元に苦笑が浮かんだ。真澄が自分に微笑んでくれたのが、嬉しいのに、胸をぎゅっとつかまれたような痛みが走る。

「ど、どうせ、私は顔で勝負する女優じゃないから、…いいんです。別に」
「どうして、そんなふうになるまで泣いていたんだ」

真澄から視線をそらそうとしても、ぎゅっとマヤのあごをつかんだ、真澄の手が許してくれない。答えを無理やり引き出そうとするような、強引な仕草。

「なんでも…ないんです。放っておいて…ください」

鼻の奥がつん、としてまた泣きそうになる。真澄の前では絶対に泣いてはいけない。必死で、自分に言い聞かせる。

「放っておけるなら、わざわざこんな時間に、君のアパートまで来るわけないだろう。俺も、君も、あっという間にマスコミの餌食になりかねないからな」

真澄は大きくため息をついたあと、拗ねたような表情を浮かべて、ぽつりと呟いた。

「激しく、動揺した」

マヤがぴくりと反応すると、真澄はマヤの額に自分のそれをこつん、とあわせて、よりまじかで、深く心の奥底を覗き込むように、茶色の瞳が、じっとマヤの黒い瞳を見つめてくる。

「ずっと会えない、話せない状態が続いていて、いきなりさっきの電話だ。どうしても君とこうして、直接顔をあわせて、話したかった。俺の目を見て話してくれ」

こんなに強く、情熱的に彼に見つめられて、あんなひどい言葉を言えるわけがない。マヤは唇を強くかみ締めたまま、動けない。

「すべて、正直に言ってくれていい。俺は、君のすべてを受け止める覚悟できたんだ。たとえもう、君に愛されていない、としても」

真澄の静かな、深い愛情に満ちた声。その声を聞いたとたん、抑えに抑えていた嗚咽が、堰を切って飛び出してきた。それらは、濁流のようにマヤの心の中で積もりつもったものを、押し流していく。激しく肩を震わせて、泣き始めたマヤを、真澄はぎゅっと抱きしめた。その温かなぬくもりは、真澄の揺らぎのない愛情とともに、すっぽりとマヤを包みこむ。次第に、マヤの体の奥底でこわばって固くなっていた何かが、溶けだしていくのを感じた。

しばらくそうやって、真澄に抱きしめられ、ようやくマヤの嗚咽が落ち着いたあと、真澄が呟いた。

「紫織さんの株のことを、君に吹き込んだのは、親父だろう?」

眉をひそめて、そう尋ねた真澄に、マヤは顔をあげる。

「親父が、もしかしたら君と接触しているかもしれない、そう聖から聞いて、いやな予感がしたんだ。だが、どちらにしても俺は、紫織さんからは株を買うつもりはない」
「でも、でも、そうしたら、速水さん、どうなってしまうの? もう、この世界ではあなたは生きていけないって。あなたがそんなことになってしまったら私…」

マヤははっとして、口をつぐむ。それ以上の言葉を飲み込もうとするけれど、真澄はマヤのいわんとすることなど、とっくに見通しているかのように苦笑する。

「親父がそういったのか? 見くびられたものだ。君だって1%でも可能性があったら、それにすべてをかけてきただろう。俺にはまだ、1%どころか、もっと可能性が残っているのだから、大丈夫だ。それよりもマヤ」

 真澄はふと、目を細めて、マヤを見詰める。せつなげに。

「君のお母さんことも、ずっと話そうと思っていた。なかなか君とゆっくり話す機会がなくて…」

マヤはあわてて首を振る。

「速水さん、そのことは……」
「いや、言わせてくれ」

真澄が強い調子で遮ぎった。

「君のお母さん、そして…君にも酷いことをしてしまった。あのときのことは、悔やんでも悔やみきれない。君が俺を憎むのも当然だし、俺を愛せない、というのも、当たり前のことだと思う」

真澄は、深い、吐息をひとつ吐き出した。いつもより近くに見える真澄の、翳りのあるそんな表情を見て、思わず彼の腕を握り締める。

「君のお母さんが亡くなったとき、たとえ君が俺をどんなに憎んでいようと、嫌っていようとも、俺はこの一生かけて君を、お母さんのかわりに見守り続けようと決めた。あのときは、紫の影として、正体を明かさないままでいよう、と思っていたけれど、今は俺として、速水真澄として見守っていける。だから君が、俺のことで負担に思うことなど何ひとつないんだ。いつだって、ありのままの君でいてほしい。ただ……君が、他の男と恋に落ちてしまうことには、正直、耐えられるか自信がない。そうだな、嫉妬で頭がおかしくなってしまうかもしれない」

真澄は淡々とそういって、さみしげに笑った。その笑顔はマヤの心臓を引き絞り、息をするのも苦しくなる。

「だがそれでも、どうしようもないんだ。君が俺を愛してくれなくても、俺は君を愛し続けることをやめることはできない。君を諦めて、婚約し結婚しようとしたときだって、変えられなかったのだから、一生このままだ」

真澄のひたむきな愛が、マヤの魂の中に光のように満ち溢れていく。それらの光彩は、すべての迷いを洗い流し、マヤの中でぐちゃぐちゃになっていた迷いや、痛みのようなものを、一瞬にしてろ過し、完全な純度をもった愛情だけが秘めやかに輝きはじめる。
真澄の手を離してしまった、と思った。もう愛想をつかされただろう、そう絶望した。けれどそんなことはあり得なかったのだ。彼が速水真澄であり続ける限り、マヤを無条件で受け入れ、愛し、寄り添ってくれるのだ、ということが、言葉以上のなにかをもって、マヤに伝わってきた。

―――きっと、永遠に求めあってしまう。ひかれあってしまう。

それは、どうやっても変えることのできない運命なのだ、と目には見えない、圧倒的ななにかが、マヤにはっきりと教えているのを感じていた。

「あなたと、一緒にいても……いいの?」

マヤの掠れた声に真澄は、洋なしのシャーベットのような、甘く透明な笑みを、ゆっくりと浮かべた。

「そのために今、俺は戦っているんだ」

真澄の両手が、マヤの頬を包み込む。二人の顔がぎりぎりにまで近づいていて、口を開いたら、もう唇が触れそうなほどだった。

「それなら、言ってくれないか。さっきの、電話での言葉は嘘だったと。俺をまだ好きでいてくれていると」

苦しげに細められた、真摯なその瞳に、もう嘘などつけない。

「好き……大好き。ごめんなさい。やっぱりダメ。あなたが好きで、好きで、どうしていいのかわからない」
「なぜ謝るんだ」

真澄が苦笑を残したまま、二人の唇が重なり合った。
何度も何度も角度を変え、自分の愛情すべてを相手に分け与えようとするかのように、激しく舌を絡めあう。無我夢中で、抱きしめあう。背中にまわした手で、お互いの存在を確かめ合う。それでもまだ、足りない。もっと、もっと。むさぼるようなキスがどんどん深くなっていく。

二人はそのまま部屋の中に倒れこむ。マヤがさきほどまで寝ていた布団に押し倒し、真澄が、覆いかぶさった瞬間、二人は顔を見合わせた。真澄の瞳が、どこか迷うように揺れたのを見て、マヤは胸が押しつぶされてしまうような、切ない痛みを感じた。

「君を抱きたい」

 全く余裕のない、どこか怒ったような顔をして呟かれた真澄の言葉は、マヤの奥底にある、女としての本能を強く刺激した。下腹部の痺れるような甘い痛みが、彼女の理性にかわって、勝手にマヤを動かし始める。微かに目を細めて、なにも言わないまま、彼の首に手をまわすと、自分から真澄の唇をひきよせ、ゆっくりと重ねあわせた。

清楚で可憐なのに、その中には甘い蜜をたっぷりと含んで、何者をも誘い込んでしまう花のような、圧倒的な妖艶さ。そんなマヤの表情に、真澄は一瞬にして魅入られて、動けなくなる。

―――俺のものだ。誰にも渡さない。

激しいまでの独占欲、突き上げるような男としての衝動が走りぬけた瞬間、すべてのためらいを捨てる。 マヤの唇にくらいつき、薄いパジャマをすぐにくぐりぬけた指たちは、彼女の輪郭すべてをたどろうと、激しく動きだす。まだ誰も触れたことのない柔らかなふくらみの先端を、指で、すっとなぞると、マヤが白い喉もとを、どくり、とふるわせた。

マヤの体を執拗なほどに愛撫して、彼女の中の『少女』が溶かし、『女』を引きずり出していることに激しく興奮しながらも、真澄はどこか、畏れのようなものも感じ始めていた。歳よりもずっと幼くみえ、20歳をすぎても少女のようなマヤ。けれど今、 自分の愛撫に応え、儚いほど細い手足やくびれた腰には不釣合いなほど、豊かな乳房を揺らし、肌理の細かい白い肌を薄い紅色に染めて、せつなげに声をあげている様は、あまりにも扇情的で美しかった。そんなマヤの姿態に、ありえないほど強く欲情をした。理性などとっくにリミットを振り切ってしまい、マヤのしなやかで白い肢体を、指や舌を使って、どこまでも貪り続ける。

彼女は、演技がただうまいだけなのではない。天性として備わっている、人を惹きつけてやまないなにかが、普通の人間よりも桁違い多く、この小さな体に秘められている。普段は地味で目立たないが、演技のような、自身を解放するような手段によって、それはマヤの内側からぐい、と引き出され、眩いくらいに輝きを放つ。それは、こんなふうに男に愛されたときにも、いかんなく発揮されるのだ。おそらく、たいていの男は、こんな彼女をみたら、魂を抜かれたようになって、手放すことなど到底、考えられなくなるだろう。

とてつもなく、大きな才能をもった人間を愛してしまったことへの畏れ。
だからこそ、ようやく思いの通じたマヤに、何度も自分への愛を、無意識に確かめようとしている自分に真澄は気づく。けれどどうして尋ねずにいられるだろうか。そうしなければ、不安で苦しくなる。胸が不自然に高鳴って痛くなる。

「マヤ……」

激しい愛撫によって、生まれてはじめての強い快楽に浚われ、豊かな乳房を覆い隠すことも忘れ、荒い息を吐いていたマヤが、ぼんやりと瞳を開けた。

「マヤ…、愛している、って言ってくれないか?」
「は…やみ、さん?」

マヤが長いまつげを震わせながら、ゆっくりと目を見開く。潤んだその瞳は、しっとりと濡れ、快楽をまとったまま、真澄をいとおしげに見つめている。

「マヤ、お願いだから」

真澄の懇願に、マヤが瞳をさらに、ゆるゆると潤む。それからゆっくりと口を開いた。

「速水さん、愛してる。愛してる…」

 マヤの言葉が、真澄の心の中の不安と絡み合い、螺旋を形作りながら、やがて迸るようないとおしさとなって、溶けだしていく。

――― 俺がずっとそばでマヤを守る。突出したその才も、すべてまるごと愛し抜いてやる。

真澄がそっとマヤの頬をその手のひらで包むと、マヤはうっとりとした表情を浮かべ、目を細めた。

「俺も、愛してる。自分でもどうしていいのかわからないほど」

真澄は低い声で呟く。それから、耐え切れなくなったように、マヤのすべてをもぎ取るような口づけしながら、誰も踏み入れたことのない、温かな彼女の中に、自身の想いのたけすべてを、沈めていった。