なにも食べたくない。のどで詰まって、胃に落ちていかないような気がする。でも食べなければ、稽古どころか、日常生活でも身体がもたないと、マヤはちゃんと自分でもわかっている。
キッドスタジオの稽古場の一室。床にぺたりとすわりこんで一人、パンをかじる。美味しいとか、おいしくない、などは感じなくても構わず、ただ食べ物を口に運んで、どうにか自分を生存させているだけの食事。砂を食べても同じ味かもしれない。視線はうつろに、古ぼけた蛍光灯のあたりを彷徨う。ほおっておいたら、勝手にどこかに飛んでいってしまいそうな、スカスカになってしまった心と一緒に。

『北島! お前が足をひっぱってんだよ! そんな演技で姫川に勝てるとおもってんのか?』『下手くそ! やめちまえ! そんなありきたりな紅天女、見たくもねえ!』

ペットボトル、灰皿、あとはナニを投げられたかな。そうだ、投げるものがなくって先生が首にかけていたタオルを投げたときには、ふにゃふにゃってすぐ落ちちゃって、思わず笑いそうになっちゃったっけ。

 マヤは力なく笑う。マヤの演技が、まるでなっていない、と他の役者は休みになり、今日はたった一人で黒沼に稽古をつけてもらっていたが、やはり全く進歩はなく、黒沼のイライラを高じさせただけだった。

デッドエンド。

自分はまさに袋小路の底の底にいるのだ、とマヤは実感する。もちろん、いままでの演劇人生の中ではこういう状態になることは多々あった。けれど、いつだってここからどうやってでも這い出してやる、という強い情熱に突き動かされて、大きな壁を乗り越えてきた。けれどその情熱の源について思い返すと、またマヤは、途方にくれる。
それは、いつでも悪役を買ってでて、マヤを炊きつけ、上へとひっぱりあげてくれた真澄の存在があったから。真澄があの美しい婚約者といっしょにいるのを見ただけでも、これほどまでに落ち込んでしまうようでは、とても紅天女になんてなれない。

 ――― どうしたらいい。どうしたら、こんな絶望的な想いを断ち切ることができるのかな。 

 マヤは大きなため息をついて、膝の間に顔を埋めて目を閉じた、まさにそのときだった。

 ぱたん。

 稽古場のドアがノックとともに開く音がして、マヤは緩慢な動作でゆっくりと首をあげて振り向き、そして大きく目を見開いた。

「速水さん……」

 真澄のことばかり考えているから、とうとう幻までみるようになってしまったか、とうつろに考えたけれど、その幻影は、広い稽古場をしっかりとした足取りであっという間に横切って、すわりこんだマヤの前で立ち止まった。

「何をしているんだ?」

 上から降ってくる、はっきりと響く低いその声は、間違いなく本物の真澄だった。思わず、もっていたパンを落としそうになる。

「な、何って稽古です。稽古……」

 呆然としながら真澄を見上げるマヤに、質のいいスーツの柔らかな衣擦れの音と共に、真澄がゆっくりと膝をついて、目線を合わせた。

「稽古? パンを齧りながらすわりこんで?」

 マヤはあわてて持っていたパンを、傍にあったバックの中に仕舞い込んだ。柔らかな栗色の髪を揺らして、微笑む真澄の整った顔が、まじかにある。その微笑みはいつもの、からかうような微笑みでありながら、どことなく優しさもにじんでいるような気がして、その表情を、目を見開いてひたすら見つめる。

「とても稽古をしているようには見えないな。黒沼さんに怒鳴られたらしいじゃないか」
「よ、余計なお世話です」

 お決まりの、そんなつんけんした言い方しかできない自分にいらだちながらも、真澄が微笑んだままなので、ほっとする。

「それより、どうして速水さんがここに? また視察ですか? えっと……紫織さん、も一緒ですか?」
 
ちくりと痛んだ胸の痛みを押し殺して、あたりをみまわしてみるけれど、他に人のいる気配はない。

「いや。今日は一人だ。黒沼さんに用事があってきたんだが、かなり不機嫌な様子で、ぷいっとどこかへ出かけて行ってしまったよ。それで気になって、君の様子を見にきてみたんだが」
「そうですか」

 そう呟いて、視線を下に落とす。鈍い光沢を放つ、美しくなめされた茶色の皮靴が目にはいる。とても高価そうな靴。自分とは違う世界にいる人。そんな人に、恋焦がれている自分が、とても愚かに思えてきて、余計悲しくなってくる。

「君らしくないな」
「え?」

 ゆっくりと顔をあげると、真澄が真面目な顔をして、まっすぐにマヤを見つめていた。

「君はいつだって、貪欲なまでに演劇に打ち込んでいた。けれど、今の君からはそんな覇気など微塵も感じられない。このままだと紅天女は亜弓君に決まりだな」

 真澄の低い冷静な声。マヤの鼓膜を震わせたのと同時に、全身もびくりと揺れた。いつもの、皮肉っぽい言い方。けれど、これが彼の叱咤激励の方法なのだ、と今のマヤならわかる。けれど反面、そのマヤを上の空にしている張本人が自分自身だ、という自覚などかけらもない、という事実を突きつけられているようで、唇をぎゅっとかみ締める。もちろん、それは当たり前のことだ。彼は、一流芸能事務所の社長で、あれほどお似合いの美しい婚約者もいる。紅天女候補であり、紫のバラの人として、目をかけてくれてはいても、しょせん自分は彼にとっては、女優の一人にしかすぎない。そんな自虐的な考えがぐるぐるとマヤの頭の中を駆け巡る。それが当然だと、自分に言い聞かせようとするのだけど、頭の芯のあたりがじん、と勝手に痺れてきてしまう。

「わかって…ます」
「マヤ?」
「わかっていますけど……」
 
溢れてきそうな涙を必死に抑えようとしたけれど、無駄な努力だった。涙はマヤの伝えたい言葉が変化してしまったように、はらはらと流れ出てきてしてきて、止まらなくなる。

「泣いていても、事態はかわらないぞ」

真澄の声は、その言葉とは裏腹に、どこかいたわりが混じった調子に変わっていた。そんな微かな変化にすぐ気づいて、死ぬほど嬉しく感じてしまう自分は、どうしようもないほど真澄が好きなのだ、とマヤは思い当たり、思わず泣き笑いしながら、かぶりを振る。

「泣いたりしてごめんなさい。わかっています。どうしたらうまく演技できるのか、自分でもよくわからなくって、もがいているんです。だけどやっぱり上手くいかなくて、自分に腹がたっているんです」

マヤは、手の甲でごしごしと涙を拭いて、無理に微笑んで見上げると、痛ましいものでも見つめるように、心配そうに細められた真澄の瞳にぶつかった。その表情から言葉はなくても、マヤを気にかけてくれている彼の気持ちが、じわりと肌にしみこんできた。


「演じていても、ふいに仮面が剥がれてしまうんです。ううん、紅天女は仮面をかぶるだけじゃとてもできない。だからもっと深くその中に沈みこみたい、って思うのに、自分の感情に邪魔されて、跳ね返されてしまうばかりで……」

マヤは大きくため息をついた。 

「一体どうしたんだ。何が君をそれほどまでに不安定にしている?」

真澄の瞳は、心配そうに細められている。けれど、こうして気にかけてもらえるのも、自分が紅天女候補だからなのだ。そう思うと、マヤは悲しげに微笑むしかない。しばらくそんなマヤを真澄はみつめていたが、ふっと呟いた。


「俺は、君の紅天女がみたい。初めて君の演技をみたときからそう思っていた」
「え?」

 マヤははっとして、彼をみあげる。

「俺が紅天女をはじめて知ったのは、まだほんの子供だった。親父の紅天女のコレクションを偶然見てしまった時だ。見つかってこっぴどく殴られたがね。そんな紅天女への親父の執念が、俺や母さんの運命を変えてしまったんだ。それほどまでに親父が執着する紅天女を、いつか俺が奪いとってやろう、と決心したのが、母さんが死んだときだった」
「速水さん……」

真澄の低い声が、他の誰もいない稽古場に、静かに反響した。

「けれど俺も、紅天女に関わっているうちに、いつしかあの幻の天女に魅了されてしまっていたことに気づいた。親父と同じようにね。血も繋がっていないのに、おかしなものだ」

 真澄は静かに笑って、そっと目を伏せる。窓から差し込みはじめた西日が、真澄の頬に深い陰影を落としているのを見つめていると、マヤの胸がきしり、ときしむのを感じた。

「紅天女など実際にはいるはずはない。けれど梅の谷で月影先生の紅天女を見て、親父が魅了されたのはこれだったのか、と鳥肌がたった。あそこで俺は、まぎれもない本物の紅天女をみた。君がいうとおり、仮面をかぶるだけじゃ、とても紅天女を演じることはできないだろう」

 真澄は、マヤを見つめた。そのまっすぐなその眼差しに、マヤは射抜かれ、動けなくなる。

「けれどマヤ、君なら紅天女になることができるはずだ。今度は君が、俺に紅天女を信じさせてくれ。この世界には、間違いなく紅天女がいるのだ、ということを。あの、幻の天女は、舞台の上に降りたって、観ている俺たちに微笑みかけてくれるのだと」
「速水さん」
 
  真澄の言葉が、身体の一つ一つの細胞に、染み渡っていくのを感じて目を閉じた。ああ、私は昔からこの人に、こうやって導いてきてもらったのだ、と心地よい痺れが全身を貫いて、体を震わせた。自分の持てる能力の限界を尽くし、舞台の上で輝くことができれば、この人はいつまでも見守ってくれる。自分が、女優であることをやめたら、この人とのつながりは儚く切れてしまうのだ。

――― そんなのはいや。いつまでも、いつまでも。たとえ細くて脆い糸であっても、ずっとこの人と繋がっていたい

マヤがそう切実にそう感じた瞬間、また涙が溢れてくるのを感じた。

 「また、泣くのか?」

 真澄が苦笑まじりの声で、ためらいがちにマヤの頬に触れ、その指先で涙をぬぐってくれた。そのあまりの心地よさにマヤ、心の奥底から広がる、甘くせつない感情そのままに、柔らかに微笑む。

「速水さん、ありがとう。私、がんばります。あなたに信じてもらえるような、紅天女を演じてみせます」
「そうだな。それでこそ俺の知っているチビちゃんだ」

 真澄も、穏やかな微笑みを浮かべて頷く。真澄のその存在すべてが、優しく暖かくマヤを包み込む。甘やかなこの時間が、ずっと続けばいいのに。マヤは思わず、頬にあてられた真澄の手を強く握り締めて、ぎゅっと目を閉じた。その瞬間、真澄の身体がびくり、と揺れた。

「マヤ?」

 真澄の動揺がマヤに伝わって、少しの物悲しさがすっと胸を横切る。きっとこんなふうに彼に触れる機会など、もうないだろうから。いま、この一瞬だけに咲いた一輪の花のように、自分でもどうしていいかわからないような、まっすぐな一途さで、さらに強く真澄の手を握り締める。

「ごめんなさい。もう少しだけこうしていてください。もう少しだけでいいから」

 真澄の手は、大きく骨ばっていて、そして熱かった。こうやってじかに伝わる真澄の熱は、静かに、確実にマヤにも伝播して、ゆるゆると全身に広がっていく。ひりひりと痛んでいた恋心が、その中でまどろみたい、と求めるままに自分の頬の上にある彼の手を強く握り締める。

  どれくらい時間がたったのか。微動だにしなかった真澄の手に、ふっと力がはいって、マヤの顔が上に向けられた。その瞬間に、はっと我にかえる。きっと真澄は呆れている。何か言わなくては、と真澄の手に重ねていた手を離そうとしたけれど、今度は逆に強くつかまれ、思わず真澄の顔を見上げた。そこには、いつものクールさなど微塵もない真澄がいた。その瞳はどこか動揺し、必死な感じさえ漂っていた。そんな顔など見たことのなかったマヤは、我知らずうろたえる。

「は、速水さん、ごめんなさい。私、あの……」
「君は」

 マヤがもたもたと言い訳しようとするのを、強い調子で遮った。

「君は、俺のことを憎んでいたんじゃないのか?」
「え?」

 マヤはとっさに答えが浮かばず、そのまま真澄の顔を見つめることしかできない。

「俺は、君に憎まれても仕方のことをしてきたのだから、君に憎まれるのは当然だと思っている。けれどその君が……どうしてそんなふうに俺に触れる?」

 あまりにダイレクトな問いに、マヤはなんて答えていいのかわからない。

「ご、ごめんなさい。速水さん、迷惑でしたよね。婚約者がいる人にこんなことして……」

 真澄はすぐに首を振った。

「俺が聞きたいのは、そういうことじゃない。君は俺を憎んでいるんだろう?」

 真澄は、まるで飲み込みの悪い生徒を根気よく教えている先生のように、辛抱強く繰り返す。けれどその言葉には、どこか焦れているような響きが感じられて、マヤは急いで答える。

「あの、私、もうあなたを憎んだりとか、していません。いえ、その、昔はあなたのこと、本当に大嫌いだと思っていたし、憎んで……いたこともあったかもしれないけれど」
 
 マヤがそういうと、真澄は口元を微かにゆがめて、自嘲するような表情になったから、あわててさらに言葉をつなぐ。

「でも、でも。今は、もう、そんなふうになんて思えない。憎むどころか……」

 真澄の動きも、稽古場の空気もすべてが止まった。唯一、窓から差し込む、一日の終わりを告げる斜めに差し込んできた日差しが、二人の間の空間を、燃えるようなオレンジ色に染める。マヤは、この刹那が与えてくれた運命のようなものに、導かれるようにゆっくりと口を開いた。

「感謝してもしきれない、です。紫のバラの人。あなたがいてくれたから、私はここまでこれた。本当にありがとうございました」

 真澄は激しく動揺したように表情を歪め、強く掴んでいたマヤの手をふっと離した。
マヤは、自分の中からあふれ出てしまった、その勢いのまま、ずっと胸に秘め続けていた言葉を迷いなく掬いとり、彼の前に差し出す。

「ずっと気がつけなくて、ごめんなさい。いつも私を気遣って、ずっと陰から支えてくれていたのに、あなたにひどいことばかり言ってしまっていた。私、ずっとずっと謝りたかった……」
「マヤ、それじゃ、君が恋をしていた紫のバラの人というのは……」

そのときだった。バタンと大きくドアが開かれて、じっと二人の会話に耳をそばだてていたような部屋の空気の固まりが、急に動いた。

「おい、北島! お前、アタマ、冷やしたか? お? 速水の若旦那?」

 黒沼は思わず入り口で立ち止まった。真澄とマヤが、部屋のまんなかで立ちつくしているのをみて、黒沼も思わず口を閉ざした。数秒してからマヤが振り返る。

「黒沼先生……」

 黒沼はマヤの表情を見て驚く。ここしばらく、しおれたように、生気のなかった顔。それが頬はバラ色に高潮し、その瞳はたっぷりと水を含んで、艶やかに潤んでいる

「へえ……。あんた、どういう魔法を使ったんだ? 北島がさっきとは別人みたいに、いい顔をしているんだがね」

 黒沼はからかい調子でそういいながら、二人のそばにゆっくりと近づいていく。驚いた表情のまま、身動きひとつしなかった真澄が、はっとしたように顔をあげた。それから。静かにひとつ、ため息をついてから黒沼に応じた。

「いえ、私のほうが魔法にかかったようですよ。この未来の紅天女の、ね」
「なんだそりゃ」

いつも儀礼的で、なにかを包み隠しているような笑みしか浮かべない真澄が、感情のかけらがふっと光るような、柔らかな微笑をその口元に浮かべたので、黒沼はおや、と目をひかれた。

「そろそろ失礼します。黒沼さん、さきほど渡した書類、中身をちゃんと確認しておいてくださいよ」
「へいへい。わかっているよ」

 黒沼はぞんざいな調子でそういって、ぼりぼりと頭をかきながらも、真澄とマヤの様子を注視する。

「それじゃチビちゃん、稽古、がんばりなさい」
「はい…」

  またしばらく会えない。自分の気持ちもうまく伝わったのかもよくわからない。そう思うとマヤは鼻を奥がつん、としてくるのを感じた。最後にもう一度、顔をみたい。そんなささやかな願望に誘われるまま、真澄を見上げようとしたとき、ふっと、あの大きな熱い手のひらの感触が、マヤの頭の上に感じられた。それからすぐに優しく、くしゃりと髪の毛をかき混ぜられた。その感触に心臓がどきっと大きな音を一つたててから、一気に高鳴りだす。そのときだった。

「今度、連絡する」

黒沼には聞こえない、低い真澄の呟きがマヤの耳元をなぞり、ゆっくりと鼓膜の内側に溶けていった。え、と真澄の顔を見上げようとしたときには、すでに頭の上から真澄の手の感触は消え、もう背中しか見えなくなっていた。

「速水さん……」

稽古場からでていった真澄を、一心に視線で追いかけているマヤを、黒沼はじっと観察するように、腕をくんで見つめていた。